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 司法の存在意義を自らおとしめる判決ではないのか。沖縄・辺野古の海の埋め立てをめぐる訴訟のことだ。

 県の漁業調整規則にもとづく知事の許可がないのに、海底の岩礁を壊すのは違法だとして、沖縄県が国に工事の差し止めを求めた裁判で、那覇地裁は実質的な審理に入らないまま、県側の敗訴を言いわたした。

 よりどころにしたのが、兵庫県宝塚市のパチンコ条例をめぐる02年の最高裁判例だ。

 パチンコ店などの建築を規制する条例に従わず、業者が工事を強行した。中止を求めて市が提訴したのに対し、最高裁は条例の内容を検討することなく訴えを退けた。「行政が国民に対し、単に条例や規則に従うよう求める裁判を起こすことはできない」との判断だった。

 那覇地裁は、相手が国民でなく国であっても変わらないとして、この判例を踏襲した。

 岩礁破砕に関しては、知事の許可が必要だとしていた水産庁が、詳しい説明をせずに見解を変更するなど、不可解な点が多い。そうした疑問も置き去りにされたため県は納得せず、紛争解決の糸口は一向に見えない。

 先の最高裁判例は学界から厳しい批判を浴びている。法に違反すると疑われる行為があり、公共の利益を担う自治体が裁判で待ったをかけようとしても、司法は取りあわない。そう言うに等しい判断だからだ。

 90年代の行政改革に関与し、行政法の教授から最高裁判事に就任した藤田宙靖(ときやす)氏は、明治以来の法理の発展を否定するものだと指摘。著書に「自ら最高裁判事となった以上は何とかしなければならないと焦慮に駆られていた」と書いている。だがこうした裁判は提訴されることがそうはないため、見直す機会のないまま定年退官した。

 辺野古訴訟はその「機会」になる可能性をはらむ。

 基地移転という政治課題とは別に、司法はいかなる役割を担い、紛争解決にあたるのかという、社会の仕組みの根幹にかかわる問題だ。他の自治体などの行動に与える影響も大きい。

 判例に従っていれば、裁判官は悩む必要はなく、審理も楽だろう。しかしそれでは議論は進展せず、機能しない司法に対する不信が深まるだけだ。

 昨年、強制わいせつ罪の成立要件を限定的にとらえる判例が、最高裁で47年ぶりに変更された。まず地裁の裁判官が異を唱えたのがきっかけだった。

 今回、沖縄県は控訴する方針だという。高裁がその主張にどう向きあうか、注目したい。

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