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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 1924(大正13)年7月28日、第10回全国中等学校優勝野球大会朝鮮大会が始まった。初出場の培材高等普通学校は、参加6校中ただ一つ、全員が朝鮮人のチームだった。

 培材高普は2回戦から登場し、釜山商を9―8で振り切った。29日の決勝で、2年前の優勝校、京城中と対戦した。

 培材高普が4―3とリードして迎えた八回、京城中に3点を許し、6対4と逆転される。しかし、まだ2点差。勝負は予断を許さなかった。

 ところが、培材高普は九回に入るところで試合を放棄し、京城中の優勝が決まる。

 当時の大阪朝日新聞朝鮮版は次のように書いている。

 「培材何が故にか棄権を申込(もうしこ)みたるを以(もっ)て主催者側は是非なく之(こ)れを容(い)れ終(つい)に京城中学軍は棄権の場合に於(お)ける規約に依(よ)り九対零を以て優勝するに至つた」(8月3日付)

 培材高普がなぜ棄権したのか、記事は説明していない。

 一方、7月31日の東亜日報はこう報じていた。

 「(試合は)多数の警官が警戒する中で開始された。当初は培材軍が懸命に戦って朝鮮人観客を熱狂させた」

 「(しかし)培材軍は球審が不公平だという理由で棄権を宣言して退場した」

 植民地朝鮮では、競技上のトラブルが民族間の対立に発展することがあった。

 野球だけではなかった。

 40年11月、釜山で開かれた学徒国防競技大会ではこんな事態が起きた。朝鮮人の学校が1位になると、日本軍人の審判長がやり直しを命じた。朝鮮人生徒は、朝鮮人の優勝を露骨に妨害している、と怒りを募らせた。

 閉会式で、生徒たちは「民族差別をなくせ」などとシュプレヒコールをあげた。さらに、アリランなどを歌いながら釜山市街をデモ行進した。翌日、朝鮮人生徒14人が検挙され、のちに8カ月の実刑判決を受けた(西尾達雄「戦時体制下朝鮮におけるスポーツ政策」)。(上丸洋一)

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