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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 現在、ソウル郊外に暮らす郭貴勲(クァククィフン)(93)は1924(大正13)年、阪神甲子園球場が建設された年に生まれた。出身地は韓国南西部、全羅北道の農村だ。

 日本統治下の朝鮮で青春時代を送った郭は、中等学校野球について、こう述べた。

 「私が通った全州師範学校には野球部はありませんでした。野球の練習や試合を見に行ったことはありません」

 全羅北道では、全州高等普通学校、全州新興などが全国中等学校優勝野球大会朝鮮大会に出場していた。郭には、全州高普で野球をしている同郷の知り合いがいたが、その人物も野球のことは語らなかったという。

 「野球は日本人向けの運動という印象でしたから、関心がなかったのかもしれません。正直に言えば、私たちは、スイカのような心境でしたから」

 スイカのような心境――。

 外見は「日本人」でも内面では朝鮮民族の意識と誇りを失っていなかった、という意味だ。

 44年、植民地朝鮮に徴兵制が敷かれた。24年生まれで、この年20歳を迎えた郭は、真っ先に制度の適用を受け、広島の部隊に配属された。45年8月6日、爆心地から2キロの地点で被爆、背中に重いやけどを負った。

 日本の敗戦が近づく頃、朝鮮の人々の間で、ある言葉が語られるようになった。

 「問うなかれ、甲子生(カプチャセン)」

 「甲子生」は24年(甲子〈きのえね〉の年)に生まれた者を指す。死地に赴くとわかっていながら運命とあきらめて徴兵に応ずるほかなかった不運な若者たち。

 同情をこめて、彼らに「問うなかれ……」と呼びかけたのだという。

 戦後、郭は、韓国人被爆者に対する援護、補償を日本政府に求めて奔走した。

 「被爆者はどこにいても被爆者」と郭は長く訴えてきた。

 60年、韓国の高校野球チームが初来日した。62年には大阪府選抜チームが訪韓した。

 国交正常化(65年)より早く、高校野球の日韓交流が始まった。(上丸洋一)

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