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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 《第8章》

 東京五輪が終わって3カ月が過ぎた1965(昭和40)年1月26日午後のことだ。

 プロ野球巨人の強打者、当時28歳の長嶋茂雄(82)の結婚披露宴が東京都内のホテルで開かれていた。

 招待客の中に、高校野球の取材に長年、携わってきた朝日新聞記者、好村(よしむら)三郎がいた。立教大野球部の出身で、長嶋の先輩にあたる。披露宴のさなか、好村は朝日新聞から電話で呼び出された。

 「飛田さんが亡くなりました」

 電話の相手は、飛田穂洲(すいしゅう)(本名・忠順〈ただより〉)の死を伝えた。

 明治、大正、昭和を選手、監督、ジャーナリストとして学生野球一筋に歩んだ飛田は、その日の午後2時25分、茨城県常澄(つねずみ)村(現水戸市)の自宅で静かに息をひきとった。78歳だった。

 好村は戦時中、学生時代から飛田に師事し、戦後は甲子園で取材する飛田に同行してきた。1カ月ほど前にも病気静養中の飛田を見舞ったばかりだった(「回想の飛田穂洲先生」)。

 亡くなった65年1月26日の朝日新聞夕刊に訃報(ふほう)が載った。

 「明治19(1886)年茨城県に生(うま)れ、水戸中学(現水戸一)を経て早大野球部主将、大正2(1913)年卒業、大正8年母校(早大)の監督になり、飛田式猛訓練で黄金時代を築きあげた。大正15年朝日新聞嘱託となり以来甲子園の中等野球にうちこみ学生野球界の最元老評論家として知られ、高校野球界の育ての親としたわれていた」

 好村は新聞社に戻ると、「飛田さんと学生野球」と題する長文の評伝を書いた。

 「飛田野球は精神野球だという。だが単なる精神野球ではない。……その練習法は常に合理的であった」

 「その清らかな野球魂は永遠に生きるだろう。あの白い球が地球上から消えない限り……」(65年1月27日付朝日新聞)

 飛田を軸に、戦時下の中等学校野球を振り返る。

 (上丸洋一)

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