[PR]

 ■ありがとう 夏100回 これからも

 その晩、飛田穂洲(すいしゅう)は、阪神甲子園球場近くの宿舎で早めに床についた。1926(大正15)年8月12日。翌日には第12回全国中等学校優勝野球大会の開会式が控えていた。

 前年秋まで6年間、早稲田大野球部監督を務めた飛田は26年、39歳で朝日新聞の嘱託記者になった。飛田にとって、これが初めての甲子園取材だった。

 床にはついたものの、その夜はひどく蒸し暑かった。そのうえ蚊の大群が押し寄せてきた。たまらず飛田は夜中に床を抜け出し、散歩を始めた。

 甲子園球場に近づくと、松林の中、幾千という人が野宿をしていた。

 「なんというものすごい光景だろう」

 中学生の野球の試合を見るために前夜から現場で待機する。「そんな不思議なことがこの世にあるのか」と飛田は思った(飛田「野球清談」)。

 大会第6日の準々決勝は群馬の前橋中(現前橋)と静岡中(現静岡)が対戦、延長十九回の熱戦の末、静岡中が6―5でサヨナラ勝ちした。静岡中は準決勝で香川の高松中(現高松)を破り、決勝では満州代表の大連商を下して優勝に輝いた。

 大会の総評で、飛田は、静岡中のエースをたたえた。

 「投手上野は未(ま)だ三年生であるといふ……フオームもわるくないしカーヴも器用である、この上は速力を増すことに意を用ひて明年に備へねばならぬ、なほ一しお注意せねばならぬことは早く名をなしたものの陥り易(やす)き天狗(てんぐ)心である……明年更(さ)らに上野少年が上達してをれば、単に静岡の喜びばかりではない、日本球界の幸福でもある」(26年8月24日付大阪朝日新聞)

 激励の賛辞と、心すべき戒めと。静岡中は翌27年も地方大会を制し、甲子園出場を果たす。

 戦争による中断期間を除いて飛田は晩年まで、夏の甲子園球場に足を運び続けた。

 この間、一貫して説いたのは「一球入魂」の「精神野球」だった。その信念を飛田はどう体得したのか。(上丸洋一)

こんなニュースも