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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 飛田穂洲(すいしゅう)は、1886(明治19)年12月、茨城県大場村(現水戸市)に生まれた。小学生のころ野球と出合い、1901年に水戸中(現水戸一)に入学、野球部に入った。

 茨城県では04年、県内の中等学校野球大会が始まり、水戸中のほか、土浦中(現土浦一)、竜ケ崎中(現竜ケ崎一)、太田中(現太田一)、下妻中(現下妻一)が参加した。5年間続いた大会で水戸中は負けなしだったという(水戸市立博物館「一球入魂 飛田穂洲」)。

 飛田が水戸中で活躍した明治後期、日本の野球は旧制第一高等学校が全盛を誇った。その練習ぶりは猛烈だった。

 冬でも素手でキャッチボールをした。初めは石で打たれたような痛みが全身に走るが、20球も投げるうちに両手に一種のかゆみが生じ、汗をかいて上着を脱ぐ。最後は「両人裸体にして満身の発汗虹に似たり」と表現された(中馬庚〈かのえ〉「野球」)。

 一高の名投手として鳴らした内村祐之(ゆうし)(のち東京大教授=精神医学)も、一高伝統の猛練習をこう振り返っている。

 「苦しかったのは、一月、二月の厳寒の候に……寒風吹きすさぶグラウンドに出て、薄いメリヤスのシャツ一枚で練習せねばならぬことであった。……当時の一高野球部は、この苦行から生まれる頑張りの精神の養成を第一義としていた」(内村「鑑三・野球・精神医学」)

 一高は04年、早稲田大、慶応大に敗れ、覇権は早慶に移る。

 当時の早大の主戦投手、河野安通志(あつし)は、練習で毎日300球ずつストライクを投げさせられた。すべてストライクとはいかないので、どうしても全部で800球以上投げねばならない。

 「肩は痛む。骨はシクシクする。……はては便所に行つて腰を曲げることも出来ないくらゐになつた。……如何(いか)にその練習が獰猛(どうもう)であつたかが知れよう」

 大正初めに刊行された「野球美談」(東草水ほか著)と題する本に登場する逸話だ。

 飛田は07年、水戸中から早大に進んだ。(上丸洋一)

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