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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 1926(大正15)年に朝日新聞の嘱託記者となって以降、飛田穂洲(すいしゅう)は紙面で中等学校野球を賛美し、選手たちをたたえた。しかし、それだけではなかった。時には厳しく批判した。

 「或(ある)地方においては選手を商品かなんぞのやうに好選手が生(うま)れれば上級学校に相当に売込(うりこ)み得るものと心得、それ等(ら)を父兄が公言して憚(はばか)らぬなど忌(いま)はしき噂(うわさ)を聞く」

 「選手精神の堕落、野球の商売化……此等(これら)の危険を未然に防がねばならぬと思ふ」(「アサヒ・スポーツ」28年12月15日号)

 30年10月、飛田ら学生野球関係者19人が、スポーツ行政を担当する文部省体育課長と懇談した。文部省は、学生野球の競技団体を発足させて問題を自主的に解決させようと考えた。しかし、関係者の意見が一致せず、その創設は足踏みを続けた。

 32年4月、文相の鳩山一郎が野球統制令を発令した。小学校、中等学校、大学・高等専門学校それぞれの野球大会の入場料や応援などについてルールを定め、学校に通知した。

 これにより全国中等学校優勝野球大会は、文部省の認可の下で開催されることになった。

 32年の第18回大会は、愛知の中京商(現中京大中京)が決勝で愛媛の松山商を延長十一回4―3で破り、大会2連覇を遂げた。大会終了後、飛田は総評をこう結んだ。

 「野球浄化の声を嘲笑(あざわら)ひつつ、日本野球の真実を白日下に晒(さら)して戦つた中等選手諸君に深き敬意を払つて感謝の筆を納める。いつまでも濁るな。我が中等野球、明年もまた明るく戦へ」(8月26日付大阪朝日新聞)

 飛田は、アマチュアリズムからの逸脱を正す必要は認めても、そこに文部省が介入することには我慢ならなかった。「日本野球の真実」を身をもって示した選手たちに拍手を送った。

 飛田にとって野球のグラウンドは、他者が足を踏み入れることの許されない「聖域」であり「小宇宙」だった。(上丸洋一)

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