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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 「たたかひは創造の父、文化の母である」

 そう書き出す陸軍省新聞班のパンフレット「国防の本義と其(その)強化の提唱」が1934(昭和9)年10月、発行された。「国際主義、利己主義、個人主義的思想」の一掃と「犠牲的精神」の涵養(かんよう)を主張する内容だった。

 「戦争を賛美して、軍国主義を鼓吹するもの」とみた朝日新聞は、その発刊を一切報道しなかった(五十嵐智友「歴史の瞬間とジャーナリストたち」)。

 満州事変(31年~)、五・一五事件(32年)などを経て、軍国主義が日本社会を覆った。

 35年2月、憲法学者、美濃部達吉の「天皇機関説」が貴族院で攻撃された。美濃部は天皇を憲法上の「国家の最高機関」とみたのに対し、排撃論者は天皇を「神」とみた。

 岡田啓介内閣は天皇機関説を否定する声明を出した。このころから「日本精神」という言葉が盛んに使われるようになり、極端な国家主義が台頭した。

 36年8月、飛田穂洲(すいしゅう)は、作家豊島与志雄との共編で青少年向けの「スポーツと冒険物語」を刊行した。飛田はこう述べる。

 「戦争の代(かわ)りにスポーツによる国と国との対抗戦をやつて、その(人間の)闘争性にはけ口をつけてゆくわけにはゆかないだらうか」

 この考えを飛田は早稲田大野球部長の安部磯雄から学んだ。

 日露戦争のさなかの1905(明治38)年、安部は、野球部を引率して米国に初遠征した。世界平和推進のためにはスポーツによる外国との交際が早道だと安部は確信していた。

 大学の創立者、大隈重信に事前に承諾を求めると、大隈はこう言って安部を励ました。

 「学生には学生のなすべき道がある。いくさをやるものはほかにある。学生が見聞を広めるために外国へいくのに、なんのさしつかえがあるものか」(「早稲田大学野球部五十年史」)

 この逸話を胸に、飛田は戦争の時代へと歩み出す。37年7月、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突した。(上丸洋一)

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