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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 1937(昭和12)年春、飛田穂洲(すいしゅう)は、文部省が学生野球を丸ごと統制下におこうとしていることに抗して、自主的な統制団体を創設しようと提唱した。

 「統制団体なきため一々文部省体育課の御厄介にならねばならぬといふ事は……一種の恥辱と考へねばなら」ない、と(3月23日付東京朝日新聞)。

 しかし、団体創設が実現する前に日本は戦時総動員体制に入っていく。7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突。1カ月あまりたった8月13日午前、日本軍が上海に上陸、中国との戦争は日に日に拡大した。

 同じ13日、第23回全国中等学校優勝野球大会が阪神甲子園球場で開幕した。

 「千機! 二千機 吾等(われら)の汗で」

 大きな幕が球場の外壁に下げられた。軍用機献納の資金を募る垂れ幕だった。

 大会中、試合の合間に拡声機が頻繁に観客を呼び出した。

 「○○市の○○さん、軍務公用です、すぐにお帰り下さい」

 召集を受けた観客がその場で立ち上がると、周りの客は拍手で戦場へと送り出した。

 大会は、後にプロ野球阪急などで活躍する剛球投手、野口二郎を擁する中京商(愛知、現中京大中京)が、川上哲治(後に巨人)を攻守の要とする熊本工を破り4度目の優勝を果たす。

 大会終了後の8月24日、近衛文麿内閣は「国民精神総動員運動」の実施要綱を決定、国民を戦争協力に動員するための精神運動に乗り出した。

 12月13日、直前まで中国の首都だった南京が陥落した。

 38年1月16日、近衛が「帝国政府は爾後(じご)、国民政府(蒋介石政権)を対手(あいて)とせず」との声明を出し、戦争は泥沼化する。

 37年度の野球界について朝日新聞運動部(現スポーツ部)が編集した「運動年鑑」(38年4月刊)は、こう述べていた。

 「球界先輩から多数の出征将士を出し何(いず)れも平素スポーツによつて鍛錬されたる心身を君国に捧げ以(もっ)て遺憾なき活躍をなした」(上丸洋一)

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