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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 1938(昭和13)年3月22日、衆院本会議に「武道振興に関する決議案」が提出され、提案者が趣旨説明に立った。

 ――武士道は明治の軍人勅諭によって体系化された。日本精神と日本武道は一体不可分。皇軍の戦闘精神は武道によってのみ養いうる(要旨)。

 議員が賛成意見を述べた。

 ――政府は外来競技のような単なる肉体上の体育奨励に費用を充てるのでなく、日本精神高揚のため、日本古来の武道を国策として振興すべきだ(同)。

 同じ頃、飛田穂洲(すいしゅう)は主張する。

 ――舶来競技の移入が日本精神に危険をもたらすなら、洋服も英書も国外に追放しなければならない。私たちの(野球による)精神鍛錬はどの精神鍛錬法にも劣らない(同、「改造」38年5月号)。

 飛田は「野球の精神は日本精神に沿っている」と主張しながら野球の有益性を強調、排外主義から野球を守ろうとした。

 38年7月、政府は、東京で40年に開催することが決まっていた五輪の返上を決めた。このころから政府は、優秀な競技選手を育てて五輪で国威発揚を図るという従来の体育政策を転換。「体力は戦力だ」として国民全体の体力向上に力を入れるようになる。

 皮革製品の供給統制で、ボールの調達に困るようになっても飛田はひるまなかった。

 「ボールがなくなれば幻影のボールを追うて練習をしよう。空中にボールを描いてバツトを振らう、大気の中に浮き出す魂のボールを掴(つか)まう、球に追はれる気合ひを以(もっ)て走らうではないか。狂と呼ばれ痴と嘲(あざけ)られることを何(な)んで厭(いと)はう。先人球士が血潮をちりばめた吾等(われら)の野球道が東亜一朝の嵐に滅却されるやうな事があつては、先輩尊崇の美風を誇りとする吾等のスポーツ界に何んで申訳(もうしわけ)があらう」(9月2日付東京朝日新聞)

 野球道は、戦争(東亜一朝の嵐)になど負けない、負けるものか。身をよじるような痛切な叫びだった。

 (上丸洋一)

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