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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 もうすぐ4月というのに、雲の多い、寒い日だった。

 1939(昭和14)年3月27日、第16回全国選抜中等学校野球大会で、大阪の浪華商(現大体大浪商)は初戦で、愛知の東邦商(現東邦)と対戦した。

 浪商は24(大正13)年の野球部発足以来15年間に春6回、夏の全国中等学校優勝野球大会に4回、甲子園に出場していた。

 特に春に強く、34年準優勝、37年に優勝を飾ったが、東邦商には34年、38年と2度敗れていた。

 必勝を期した3度目の対戦だったが、予想外の展開となった。浪商は、二回に2点、三回に2点、五回に一挙7点を失う一方、打線は五回まで安打1本に封じられた。

 「情けないなあ。あんな緩い球がなんで打てへんのかなあ」

 一人の少年が観客席で首をかしげた。当時14歳、のちにプロ野球阪急などで活躍する今西錬太郎(93)だ。4月に浪商に入ることが決まっていた。

 この試合、浪商打線は、相手投手の前に凡打の山を築き、1―20で敗れた。

 今西は甲子園球場が建設された24年、大阪市に生まれた。9人きょうだいの下から2番目。父は理髪店を営んでいた。

 長兄が野球好きで、仲間とチームをつくって河原でボールを追っていた。今西も幼い頃から兄について球拾いをした。

 「小学校に入る前、近所の米屋のおじさんに自転車の荷台に乗せられて、春、夏の大会ごとに甲子園に連れていってもらったことを覚えています。アルプススタンドで朝からしまいまで見てました。そのころから、甲子園に出たいなあ、と思っていました」

 小学校に入ると同時に野球部に入った。父親は「野球でメシが食えるんか」と言った。

 小学5年生のころ、その父親がグラブとスパイクを買ってくれた。うれしかった。許してくれたんだな、と思った。父はほどなく、病気で急死した。

 浪商に入るとすぐ今西は正選手に抜擢(ばってき)された。

 (上丸洋一)

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