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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 1939(昭和14)年4月の浪華商(大阪、現大体大浪商)入学を前に、当時14歳の今西錬太郎(93)は、野球部の冬季練習に参加した。

 100人を超す入部予定者が一塁線、三塁線にそって並び、声をあげながら先輩の守備練習を見守った。一塁側にいた今西に監督が突然、声をかけた。

 「おい、そこのお前、ノックを受けてみろ」

 何で自分が……と戸惑ううちに、強烈なゴロが右に左に飛んできた。それを今西は懸命に体で止めた。その日から今西は、先輩にまじって二塁手の守備位置でノックを受けた。

 当時の監督は本田竹蔵。25(大正14)年の第11回全国中等学校優勝野球大会に高松商(香川)の一塁手として出場し、優勝した経験をもっていた。

 今西は、小学校卒業後、高等科2年を経て浪商に入った。多くの部員は小学校を出てすぐに浪商に入学しており、今西と同じ年で3年生になっていた。

 今西には、先輩たちがみな「おっさん」にみえた。

 39年夏、第25回大会の大阪大会に今西は1年生ながら8番二塁手で全5試合に出場した。選手層の厚い浪商で、1年生のレギュラーは異例だった。準決勝まで大差で勝ち進んだが、決勝で京阪商(現芦間)に2―3で敗れ、優勝は成らなかった。

 甲子園での全国大会は、白衣の傷痍(しょうい)軍人が観客席から見守る中、海草中(和歌山、現向陽)の左腕投手、嶋清一が全5試合を完封。準決勝、決勝と2連続無安打無得点試合を達成して優勝した。

 大会創設25周年にあたって、飛田穂洲(すいしゅう)は、こう論じた。

 「吾等(われら)が常に説き来つたものは、日本精神を土台とした野球――即(すなわ)ち日本式野球であつたことを、改めて公言して置きたいと思ふ」(「アサヒ・スポーツ」39年8月第1号)

 「日本精神」を理由に外来スポーツを排する風潮に、飛田は異議を申し立てた。

 秋から今西は投手に転向した。(上丸洋一)

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