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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 1941(昭和16)年の第18回選抜中等学校野球大会は一人のヒーローを生みだした。滝川中(兵庫、現滝川)のエース別所昭(のち毅彦)だ。

 走者として本塁に突っ込んだ際、左腕を骨折。包帯で腕をしばって続投した。「泣くな別所、センバツの花」と新聞はその健闘をたたえた(「選抜高等学校野球大会50年史」)。

 のちにプロ野球南海、巨人などで活躍した別所は、自伝「剛球唸(うな)る!」(89年刊)でこう述べている。

 「球場には大和魂とか真摯(しんし)敢闘という看板が掲げられるなど、戦時下の重苦しい雰囲気があった。精神力ということで投げざるを得ない状況であった」

 41年6月4日、朝日新聞は、第27回全国中等学校優勝野球大会の開催社告を掲載した。

 これと前後して文部省は、大会を新聞社から切り離して、文部省の手で開催する意向であることを朝日側に伝えた。

 大会役員の佐伯達夫(戦後、日本高野連会長)が文部省体育局長の小笠原道生と折衝した。

 小笠原は和歌山中(現桐蔭)の選手として豊中グラウンドでの第1、2回大会に出場。早稲田大野球部出身の佐伯は小笠原をコーチしたことがあった。

 だが、小笠原の姿勢は硬かった(「佐伯達夫自伝」ほか)。

 文部省は7月中旬、全国的な体育大会や複数の道府県にまたがる競技大会は中止せよ、との通達を出した。これにより夏の甲子園大会も中止に追い込まれた。防諜(ぼうちょう)上の理由で中止の新聞社告は掲載が許されなかった。

 ただし、道府県単位の地方大会は開催可能で、対応は各地で分かれた。兵庫は2回戦の途中で大会を中止したが、東京、大阪、岡山などは通達後に決勝まで試合をした。

 8月12日、大阪大会決勝で、浪華商(現大体大浪商)と日新商(現日新)が対戦した。浪商の今西錬太郎(93)、日新商の堀井数男両投手が譲らず、延長十三回表まで0―0で進んだ。

 その裏2死から日新商の打者が右前打を放った。(上丸洋一)

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