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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 1941(昭和16)年8月12日、第27回全国中等学校優勝野球大会大阪大会決勝。0―0で迎えた十三回裏、日新商(現日新)2番打者の打球は右翼手の前で跳ねて三塁打になった。浪華商(現大体大浪商)は、一打サヨナラのピンチに立った。

 浪商のエースだった今西錬太郎(93)は次打者の初球にカーブを選んだ。

 「最後、やっぱり逃げたんだろうね。スイフト(速球)でいっとけば……」と、今西は77年前の一球を悔やむ。左翼前に痛打を浴びて、浪商は敗れた。

 この決勝戦の数日後、日新商の校長は、選手たちに甲子園大会の中止を伝えた。

 「よく聞け、君らは甲子園には行けない。これもお国のためだ。辛抱しろ」(80年8月7日付朝日新聞)

 浪商のメンバーも大阪大会のあと、甲子園大会の中止を知った。

 「決勝で負けたあとでしたから、中止と聞かされても特にどうという感じはなかったですね」と今西は言う。

 41年12月8日、日本は米英との戦争に突入した。

 翌42年春、選抜中等学校野球大会が中止になった。夏の大会も朝日新聞社の手を離れて、文部省などが主催する総合競技会に取り込まれることになった。

 同年7月12日、朝日新聞は「全国中等野球大会終止」の社告を掲載。「接収に当(あた)り……一片の通牒(つうちょう)のほか何等(なんら)委曲を尽(つく)すことなかりし当局の態度に対しては、遺憾を禁ぜざるものがある」と不満を表明した。

 8月23日、文部省など主催の中等学校野球大会が、甲子園で始まった。徳島商と京都の平安中(現龍谷大平安)が決勝に進出。徳島商が延長十一回8―7で接戦を制し、優勝を飾った。戦前、中等学校野球の「全国大会」はこれで幕を閉じる。

 今西は振り返る。

 「それでもぼくらはねえ、いつか大会が再開されるだろうと信じて、戦闘帽をかぶって、毎日毎日、練習だけは休まず続けたんですよ」(上丸洋一)

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