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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 1942(昭和17)年秋、大阪府中等学校報国鍛錬大会が開かれた。浪華商(現大体大浪商)は準決勝でライバル日新商(現日新)を1―0、決勝で扇町商(現扇町総合)を2―1で下して優勝した。

 浪商のエースだった今西錬太郎(93)は、この2試合を含む4試合に先発、完投した。

 39年の入学以来、夏の全国中等学校優勝野球大会大阪大会の決勝、準決勝で惜敗を重ねてきた今西にとって、これが初めての優勝だった。しかし、その先に甲子園大会はなかった。

 「そうですか、優勝していますか」

 雪辱を果たした今西にも、強い印象は残っていない。

 43年1月22日、朝日新聞は、野球王国愛知が野球排撃を決議した、と報じた。米英撃滅態勢を確立するには野球などの米英的競技を徹底排除しなければならない、という理由だった。

 同じ頃、朝日新聞の嘱託記者、飛田穂洲(すいしゅう)は論じた。

 「先輩も起(た)て、選手も起て、後援者も共に起つて自らの母校野球部を守り抜かねばならない。やがて老(おい)も若きも共に戦(たたかい)の庭に立たねばならぬ時が来たら、打棒を直ちに銃に代へて、血の一滴まで夷狄(いてき)にそそぎかけねば已(や)まないであらう。しかしそれまでは吾等(われら)の信仰を温(あたたか)く抱きしめて置かねばならない」

 「吾等の野球は、吾等の野球部は、吾等の野球愛は決して冒されてはならないのである」(「相撲と野球」43年3月号)

 戦いに立ち上がるその時までわれらの野球を守り抜け、と飛田は大胆にも主張した。

 3月、文部省は「戦時学徒体育訓練実施要綱」を決定。野球は、3校以上参加する大会は開催できないことになった。

 5月23日、浪商は、市岡中(大阪、現市岡)と練習試合をした。浪商は2年生左腕、平古場(ひらこば)昭二が投げた。両校ともこれが戦時下最後の試合となった。

 今西は12月に浪商を繰り上げ卒業し、製鉄工場で働き始めた。非運のエースはやがて出征の時を迎える。(上丸洋一)

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