[PR]

 ■ありがとう 夏100回 これからも

 砂浜に掘った「たこつぼ」の中で、大阪・浪華商(現大体大浪商)野球部出身の今西錬太郎(93)は、じっと海の方を見つめていた。板で作った模造の上陸用舟艇が自分の方に近づいてきたら、爆弾にみたてた土嚢(どのう)を胸に抱いて突進する。

 1945(昭和20)年、茨城県の鹿島灘沿岸。4月に大阪から移って以来、100人近くの20歳前後の若者が、米軍の上陸に備えて「肉弾特攻」の訓練を繰り返していた。

 今西は語る。

 「ここで死ぬものと覚悟しとったですね。自分の命は、国に捧げたのだと。野球のことは全く頭にありませんでした」

 晴れた日には米戦闘機の編隊が襲来し、機銃掃射や爆撃をした。米機のパイロットの顔が、たこつぼから見えた。

 5月、飛田穂洲(すいしゅう)は、早稲田大近くにあった東京の自宅が空襲で焼かれ、郷里の茨城県大場村(現水戸市)に帰った。飛田が朝日新聞に試合評を書いてきた東京六大学野球は、42年秋を最後に活動を停止していた。

 このころ、出征の報告で飛田のもとを訪れた立教大野球部出身の好村三郎(戦後、朝日新聞記者)に飛田はこう話した。

 「死ぬばかりが国の為(た)めではないぞ、生きて帰って来い」(「回想の飛田穂洲先生」)

 36年の第22回全国中等学校優勝野球大会で優勝した岐阜商(現県岐阜商)のメンバー、近藤清は43年10月、戦時下「最後の早慶戦」で早大の3番を打った。近藤が「海軍予備学生を志願する」と申し出ると、飛田は「軍隊とは、いま君が思っているほど純粋できれいな所ではない」(同)と諭した。

 近藤は45年4月、神風特攻隊員として沖縄方面に出撃して帰らなかった。

 8月15日、今西は砂浜に集められた。中隊長が小型ラジオを用意していた。雑音がひどく言葉は聞き取れなかった。

 「日本は負けた」

 中隊長がそう言って涙をぬぐった。今西はぼうぜんと立ちつくした。(上丸洋一)

こんなニュースも