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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 《第9章》

 「相撲、野球、庭球など 明朗体育を復興」

 敗戦から1カ月あまりたった1945(昭和20)年9月23日、朝日新聞にそんな見出しの記事が載った。この中で厚生大臣の松村謙三が次のように語る。

 「われわれは永い間真の意味でのスポーツを忘れてしまつてゐた……今後明朗闊達(かったつ)に普及し育てねばならない」

 戦争中の体育は、国のため進んで命を捧げるよう国民の心身を鍛錬することが目的とされた。そうした「お国のための体育」から、個人の生命が躍動する「明朗体育」へ。敗戦で体育の意味は一変した。

 11月6日、朝日新聞は社説で「統制団体は速(すみや)かに解散して、スポーツを役人の手から民間に還(かえ)すべきである」と主張した。

 同じ日、飛田穂洲(すいしゅう)の長文の投稿が朝日新聞「声」欄に載った。飛田はこう述べる。

 「学生野球に限り吾等(われら)の先人が築き上げて呉(く)れた日本式野球から逸脱した道楽的野球や趣味的野球に堕してはならない。この主張は……戦勝国にならうと戦敗国にならうと寸毫(すんごう)も変(かわ)るべき筈(はず)のものではない」

 飛田は、学生野球の本質に変化はないことを強調した。

 このころ、朝日新聞大阪本社運動部(現スポーツ部)は、各地の中等学校に、現状で野球ができるかどうか、支局を通じて調査した。

 「(今はできる状態ではないが)朝日新聞社が来年夏に大会を復活するというなら必ず参加するようにする」。そんな声が集まった(大会40年史)。

 大阪の浪華商(現大体大浪商)は10月初旬に練習を再開させた。しかし、用具が不足し、食糧事情が極端に悪化した中で、かつてのように連日、火の出るような猛練習をすることは不可能だった(「浪商野球部二十五年史」49年刊)。

 復員した戦時下の浪商エース、今西錬太郎(93)が母校のグラウンドを訪れたのは、そのころのことだった。(上丸洋一)

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