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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 1945(昭和20)年秋、肉弾特攻の訓練に明け暮れた茨城県から大阪府豊中市の実家に帰った今西錬太郎(93)は、大阪市東淀川区にあった母校、浪華商(現大体大浪商)のグラウンドに足を運んだ。

 当時21歳の今西に、野球部長の杉本藤次郎が言った。

 「これからの日本を明るくするのはスポーツだ。君はプロ野球に行ったらどうや」

 そこに居合わせた野球部の先輩で、戦中、阪急で外野手を務めた仁木安もうなずいた。

 「錬ちゃんならやれるよ」

 仁木さんがそう言うなら……と今西は決断した。杉本が阪急に話を持ちこむと、テストなしで今西の入団が決まった。

 46年1月21日、朝日新聞は、全国中等学校優勝野球大会を復活させるとの社告を掲載した。

 「今次戦争によつて歪(ゆが)められた若き心をスポーツによつてその本然の姿に立ちかへらせるとともに野球を通じて民主主義精神の育成を助長し……」

 この社告で、平古場昭二投手ら浪商野球部の4年生6人は腹を固めた。戦後の混乱期、中学は4年で卒業することが認められたが、彼らはもう1年、浪商で野球を続けることにした。

 2月25日、全国中等学校野球連盟(現日本高校野球連盟)の創立総会が開かれ、会長に朝日新聞社主の上野精一、副会長に中断前の大会副委員長だった佐伯達夫を選んだ。

 「ボールを送ってくれないと地方大会が開けない」との声があがった。生活物資も食糧も不足していた。朝日新聞に、次のような記事が載った(要旨)。

 ――日本人が生死の岐路にある時、いまだに雑草は嫌だなどと言っている人がいる。アザミなどはネギや大根に比べて何百倍、何千倍のビタミンを含んでいるのに(46年3月31日付)。

 4月27日、8球団が集まりプロ野球のリーグ戦が再開された。甲子園は占領軍に接収されて使えず、後楽園球場や西宮球場が主に使用された。

 今西は開幕第2戦で早くもマウンドに上がる。(上丸洋一)

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