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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 1956(昭和31)年のシーズン後、プロ野球界から退いた当時32歳の今西錬太郎(93)は軟式野球チームのコーチの仕事を持ちかけられた。立正佼成会(りっしょうこうせいかい)という新興宗教団体の軟式チームだという。その時、今西は、立正佼成会が何であるかを知らなかった。

 今西は、東京都杉並区にある教団本部で幹部と会い、「野球のチームを強くする仕事なら」とコーチ就任を承諾した。

 帰宅して、妻の千鶴子に「次の仕事、決めてきたで」と伝えた。今西の引退直後から働きに出ていた千鶴子が尋ねた。

 「それで、お給料は、いくらもらえんの?」

 「あっ、しまった。それを聞くのを忘れとった」

 立正佼成会は戦時下の38年、庭野日敬(にっきょう)と長沼妙佼(みょうこう)が創立した在家仏教教団で、法華経の実践を通じた人格完成、社会貢献、平和貢献などを掲げて戦後、急速に会員を増やしてきた。

 今西は57年、佼成会に入会、教団職員として軟式チームの指導にあたった。ライバルは東京にあったPL教団のチーム。56年の春季東京軟式野球大会はPL教団が優勝、57年の夏季大会は立正佼成会が優勝と、互いにしのぎを削った。

 そうした中、今西は、同会が56年に開設した佼成学園の野球部監督就任を打診された。

 今西は言う。

 「実は、野球はもういい、と当時は考えていました。野球は別の人でもできる。これからは信仰の道で修行を積みたいと。ところが、高校の監督もまた修行の道だと言われて……」

 今西は、学生野球資格が認められ、59年に監督に就いた。

 「自分でこの道を選んだというより、何かに引っ張られて高校の監督にたどりついたという感じでしたなあ」

 当時の野球部のグラウンドはのちに「吹奏楽の聖地」と呼ばれる教団施設「普門館」が建設される場所にあった。両翼88メートル、中堅112メートルの立派な球場だった。野球部はめきめき、力をつけていった。(上丸洋一)

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