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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 1959(昭和34)年春、今西錬太郎(93)は、佼成学園(東京)の野球部監督に就いた。

 一塁手だった高木健三郎(76)は、打撃投手をかってでた当時34歳の今西の投球に目を見張った。全身をバネのようにはずませて、切れのいい球を投げ込む。ラジオで聴いた「巨人キラー」が目の前にいた。

 ノックをしながら今西が選手に向かって叫ぶ。

 「こらっ、何しとんねん。しっかり体で止めんかい!」

 東京の真ん中で聞く大阪弁が高木には新鮮だった。

 63年、佼成学園は春季東京都高校野球大会決勝で日大三に6―0で勝ち初優勝した。今西の監督就任から4年での快挙だった。

 当時、佼成学園の入学者は、母体である立正佼成会の会員子弟が多く、地方からも生徒が集まった。野球部のレギュラーも多くが東京以外の出身だった。

 今西は、守備練習に力を入れた。ノックを繰り返して捕球や送球の動作を体で覚えさせた。

 春季都大会で優勝したチームの主将で捕手だった吉原晴夫(72)は「練習で厳しいノックが続くと、わざと監督を狙って返球してくる選手もいましたね」と振り返る。

 今西は「気づいてました。だけど、へっちゃらですよ、そんなもん。あの頃は確かに、グラウンドが殺気立ってましたなあ」と笑う。

 練習が終わると今西は「バッティング、良くなったよ、頑張りや」などと声をかけて選手たちを励ました。

 この頃は、宗教団体「PL教団」を母体とする大阪のPL学園と、佼成学園の野球部を並べて報じるスポーツ紙もあった。

 55年の学校創立と同時に野球部を発足させたPL学園はすでに、62年春夏、63年春と、甲子園出場を果たしていた。

 63年、女子バレーボールの監督、大松博文の著書「おれについてこい!」がベストセラーになった。指の骨にひびが入っても休ませない猛烈な根性主義が全編を貫いていた。(上丸洋一)

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