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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 下館一(茨城)の投手宮田勲(75)は1959(昭和34)年に夏の甲子園の土を踏むが、家は苦難の連続だった。

 中学3年の11月、茨城県内の役場の敷地に住み込んで小間使として働いていた父を亡くした。家に住み続けるには、プロ選手になってお金を稼ぐ夢を諦め、あとを継がなければならないと考えた。進学を断念しかけた時、京都で働く兄が家に戻って、仕事を継いでくれた。

 58年、兄のおかげで進めた下館一は野球に力を入れており、厳しい練習が待っていた。エラーをすると、グラブを外して素手で捕球した。毎日のように10キロほど走り、ボウフラの姿も見える水田に口をつけてのどを潤した。「へとへとなんてものじゃなかった。今となっては信じられないような練習だった」

 部員らは長期休みになると、利根川水系の小貝川の流量調査の手伝いで船に乗り、護岸工事で出た土を載せたトロッコを運ぶ仕事をして、部費を稼いでユニホーム代などにあてた。

 当時、同世代の多くの球児たちは、高校で野球を続けていくための努力を惜しまなかった。

 「部費かせぎに土方」。61年に甲子園に出た伊那北(長野)も毎年冬、天竜川の河原でアルバイトを続けたと、当時の朝日新聞が書いている。

 伊那北を1回戦で破った東北(宮城)の及川宣士(74)は、校庭前の池に部員たちに栄養をとらせようとコイが放たれていたのを覚えている。PL学園(大阪)で活躍した清原和博の少年時代を指導した元プロ。及川は「学校横の丘を崩して投球練習場を造った時は三輪車を引いて土を運んだ」と振り返る。

 生活苦の宮田には、さらなる不幸が襲った。下館一に入学した翌春、親代わりになって家計を支えてくれた兄が急死した。今度こそ、学校をやめて働かないといけない。「野球の練習ができるのも、今日で最後になるんだ」。そう思うと、グラウンドで涙がぽろぽろとこぼれて、止まらなかった。(五十嵐聖士郎)

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