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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 1956(昭和31)年、経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言。58年には東京タワーが完成し、足元の東京23区内ではテレビが4軒に1台以上、洗濯機を持つ世帯は10軒のうち4軒に普及し、都心では経済成長の果実が実りつつあった。

 中学3年で父を亡くした宮田勲(75)はこの年、下館一(茨城)に入学。さらに高校2年の春に一家を支えてくれた兄を失った。甲子園の夢を諦めて働こうと決めたが、事情を知った監督らが奔走した。宮田と母が、亡き父と兄の職場だった役場の敷地内の家に住み、高校を退学せずに野球を続けられるよう計らってくれた。「それからは気が楽になって、投げる試合は連戦連勝だった」

 高2の夏、59年の第41回全国高校野球選手権の茨城大会初戦は春の大会で敗れた日立一との雪辱戦。宮田はマウンドを任され、九回を終えて2―2。日没引き分けとなった。翌朝午前8時半からの再試合に備え、下館一は水戸市内の球場近くの旅館に泊まった。朝食にふだん家で食べたことのない貴重な生卵が出た。「天国のような食事でした。再試合後のインタビューで『生卵を5個飲んで力をつけたから勝てた』と答えた記憶があります」と宮田は振り返る。

 再試合で、宮田は得意のシュートで相手打線を翻弄(ほんろう)し、6―0で完封した。残る4試合も宮田が先発登板して勝ち上がり、茨城の頂点に立った。

 前年58年の大会は第40回の節目の記念大会で、初めて全47都道府県から代表校が出場。米軍統治下の沖縄からは首里が初参加した。ただ、第41回大会に出場するには29地区の代表に選ばれなければならず、下館一が甲子園に出るには、千葉代表と東関東代表の座を争わなければならなかった。

 甲子園への切符がかかる試合で、宮田は成東(なるとう)(千葉)を相手に7イニングを三者凡退に抑えて完投。打っては2安打で得点にも絡み、3―1で勝ち抜けた。

 (五十嵐聖士郎)

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