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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 「甲子園初出場のかげに 宮田投手の秘めた涙」

 1959(昭和34)年の週刊朝日8月16日号にそんな見出しが載った。父と兄を亡くす不幸を乗り越え、野球を続けた下館一(茨城)の宮田勲(75)。記事は「家庭の不幸を自らの手で克服して、精神的にもひとまわり成長した」と紹介する。

 第41回全国高校野球選手権大会出場を決めた下館一は、東京から急行「雲仙」で9時間ほどかけて大阪に向かった。東海道新幹線が開業するのは、東京五輪が開かれる5年後の64年のこと。宮田らは半日がかりで兵庫県西宮市の宿舎に到着した。

 開会式は華々しかった。春に美智子さまと結婚したばかりの皇太子さま(現天皇陛下)が貴賓席から拍手を送った。大勢の視線が注がれる中、入場行進した宮田は「雲の上を歩いているような感覚」だったことを覚えている。

 ただ、その大観衆にのまれたのか、下館一は初戦の東北(宮城)に1―15で敗れる。「思い出らしい思い出はないんです。甲子園に行くまでに燃え尽きたんでしょう」。先発した宮田は、16安打を浴びて八回途中で降板。チームは内野フライを落とすなど、計12失策と戦後記録更新のおまけもついた。その後、宮田は3年の夏にけがをして野球を断念した。

 宮田は卒業後、地元大手のセメント会社に就職し、鹿島臨海工業地帯の開発などに関わってきた。「寝る間も惜しんで働き、日本の土台作りに貢献したという自負がある。野球部の猛練習こそが苦しい時の支えだった」。甲子園出場の記念に贈られた金色のバックルは、宮田の孫で弥栄(やえい)(神奈川)高校3年の野球部員、菊地旺伸(あきのぶ)(17)に託されている。菊地は「祖父のように甲子園を目指したい。そのお守りです」と大切にする。

 宮田を取り上げた週刊朝日の巻頭は「原爆の日・特集」だった。見出しは「十四年目のツメ跡 原爆症はまだ続いている」。戦争の影響がまだこの頃の球児たちに深く残っていた。(五十嵐聖士郎)

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