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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 1960(昭和35)年前後は、戦中生まれの球児たちが甲子園を沸かせた時代だった。

 60年6月15日、国会前で日米安保条約反対を訴えた東京大学生の樺(かんば)美智子(当時22)が、デモのさなかに圧死。戦時中に幼いころを過ごした若者らが、反戦などの学生運動を繰り広げた。条約は間もなく自然成立し、時の首相、岸信介は混乱の責任をとって内閣総辞職した。

 戦争の記憶は、球児たちにも色濃く残っていた。60年の第42回全国高校野球選手権大会に出場した御所(ごせ)工(奈良、現御所実)のことを、朝日新聞は「戦争で父を失い、母親の手一つで育てられた選手」が5人いると紹介している。62年の第44回大会出場の中京商(愛知、現中京大中京)は、選手14人のうち3人の名前が「勝利(かつとし)」だった。「第二次大戦末期に生れ、国民の願いを集めてつけたような名前だが“せめて平和な野球の戦いには、この名の願いがかないますように”」(原文ママ)と記事は伝える。

 61年の第43回大会に初出場した崇徳(そうとく)(広島)の勢川征男(せがわゆきお)(74)も戦中生まれで、戦争で両親を失った。「生みの親の顔は覚えていない。自分の名前の由来を確認するすべもない」と話す。敗戦直後の広島で野球に打ち込み、61年8月13日、甲子園の土を踏み、一塁手として初戦の武生(たけふ)(福井)との試合に先発出場した。

 その16年前の8月6日朝、勢川は港に近い広島市内の自宅にいた。当時2歳。勤労奉仕に出かける母を見送るために2階のベランダに出ていたという。そのとき、強烈な熱線が襲った。原爆だった。

 のちに周囲から聞かされたところでは、勢川は崩れた家屋の隙間に挟まれた。一命を取り留めたが、右半身は熱線を浴び、救出の際に右手を引っ張られると皮膚がずるむけ、3人の医者から見放されたという。

 父は出兵し、フィリピン・ルソン島で亡くなり、母は原爆で命を奪われた。そして、自らも被爆に長年苦しめられた。(五十嵐聖士郎)

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