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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 両親を戦争で亡くし、自らも2歳で被爆した勢川征男(せがわゆきお)(74)を育てたのは、広島の実父の姉夫婦だった。

 子どものいない家庭で、お手伝いさんに「ぼん」と呼ばれて育てられた。しかし被爆の影響で、血便に苦しむ。右半身のケロイドを治すために硫黄の石を沈めた風呂に頭までつからされたという。養父は体の弱い勢川を鍛えるため、幼い頃から腕立てや懸垂、腹筋を課した。

 小学校高学年になると、野球好きの養父と毎朝、自宅近くの江波山を走ってキャッチボールをした。「おやじがよく付き合ってくれた。練習しないと体の調子が悪くなるほどだった」。自宅近くに古豪の広島商があり、野球部の練習を見ては憧れた。

 ケロイドの痕や血便は、中学に入る頃には消え、崇徳(そうとく)(広島)へ進んで野球を続けた。3年夏に打撃力を買われて、ベンチ入り。1961年の第43回全国高校野球選手権大会に初出場すると、初戦の武生(たけふ)(福井)戦で3打数2安打と気を吐き、3―2で延長サヨナラ勝ちした。翌日の朝日新聞は「“原爆孤児”も大活躍」と伝えた。

 「中村さん夫妻は、征男君のからだを鍛えることだけに専念した。(略)高校三年になったいま、征男君は身長一七四センチ、体重六五キロの堂々たる体格に成長し、(略)原爆をノックアウトしたのだ」

 記事は「征男君はベンチの片すみで『生みの親は全然覚えていないが、生きていてきょうのぼくをひと目見てもらいたかった』といった」と結んだ。

 崇徳は続く新発田(しばた)農(新潟)を4―1で破ったが、準々決勝で岐阜商(現県岐阜商)に1―3で競り負け、勢川は甲子園を去った。

 終戦の日の8月15日正午に選手や観客らが黙祷(もくとう)をするのは、2年後の63年の第45回大会から。終戦から70年以上たつ今も続く。

 勢川と同じ広島で被爆した球児の中には、元プロ野球選手の張本勲(77)もいた。

 (五十嵐聖士郎)

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