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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 夏の全国高校野球選手権大会のこれまでの都道府県別の優勝回数は、広島は大阪、愛知につぐ7回で、東京や神奈川、兵庫、和歌山と肩を並べる。

 「野球王国」とも言われる広島で、崇徳(そうとく)の勢川征男(せがわゆきお)(74)ら戦時中に被爆した少年たちも野球に熱中した。プロ野球で史上初の3千安打を達成した張本勲(77)もその一人だ。

 張本は韓国から日本にきた両親のもとに生まれ、5歳で被爆した。自著「張本勲 もう一つの人生」(新日本出版社)に、当時の様子を書いている。

 「まるで地獄絵のようでした。思い出すのはうめき声と叫び声。やけどをしたりけがをした人たちの苦しむ声が、あちらからもこちらからも聞こえていました」。張本は原爆で姉を亡くした。その後、広島に来たプロ野球選手の豪華な食事を目にして、プロを目指す。「うまいものを腹いっぱいに食べたい。お金をたくさん稼いで六畳一間の生活から脱出し、母に楽をさせてやりたい」

 1961年の第43回大会に出場した勢川は、張本の3歳下で、「けんかの強い『はりやん』と一緒に遊んだこともあった」と懐かしむ。勢川は卒業後も、専修大で野球を続けた。しかし養父が倒れたため、野球の道を断念して、広島に戻った。その後、神戸の親戚が営む看板会社を継ぎ、現在は「ヒカリ工芸社」の社長を務めている。好況期には従業員を30人ほど雇った。

 会社が好調だった95年の年明け、がんで胃を全摘出した。直後の1月17日、病床で阪神大震災にあう。神戸・元町の自社ビルは損壊し、売却された。

 毎日、薬を服用して、被爆手帳を手に定期的に通院する。「胃がんは原爆の影響もあったと思う。原爆なんて落としたらあかん。無関係の人が苦しむだけ」と訴える。

 勢川の会社ではかつて、手描きの映画看板などの制作も請け負っていた。その映画界を長年支えてきたある俳優の弟も甲子園を目指していた。

 (五十嵐聖士郎)

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