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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 《第11章》

 「“戦後っ子”堂々と入場」

 1964(昭和39)年8月9日の朝日新聞夕刊(東京本社版)は、第46回全国高校野球選手権大会の開会式の様子をそんな見出しで伝えた。

 「みんな、いもづるを食べていた母の手で育てられた“戦後っ子”ばかりだ。のびゆく日本の象徴のように、甲子園の大地を堂々と行進した」

 この年、東京五輪が開催され、東海道新幹線が開業。都心に高級ホテルが次々と建った。戦後に生まれ、国内の風景が一変する60年代を過ごし、「巨人、大鵬、卵焼き」(61年の流行語)が好きだった少年たち。

 大阪の商社、稲畑産業の総務広報室長を務める舟木正己(64)も、その一人だ。福島県いわき市の炭鉱の町で育ち、69年に地元の公立進学校の磐城に進んだ。この年の夏、甲子園で球史に残る試合があった。松山商(愛媛)―三沢(青森)の決勝は延長18回まで続き、0―0で引き分け。翌日の再試合で、松山商が4―2で三沢を破った。決勝初の引き分け再試合で、皆がテレビにかじりついた。

 舟木が入学した磐城は当時、「スパルタ練習」だった。親指と人さし指の間の網を外したグラブや素手で打球を受けた。手足の動き一つひとつを細かく指導され、できるまで繰り返した。毎年数十人入部しても音を上げ、最後は10人ほどしか残らなかった。「監督が恐ろしくてやめると言い出せない者だけが残った」と舟木は苦笑いする。

 70年、朝日新聞が全国の高校野球選手1250人に世論調査をしている。「高校野球には根性が必要」との意見への賛否を尋ねたところ、賛成が95%。テレビアニメ「巨人の星」が始まったのは68年のことだ。

 舟木が3年になった71年夏、磐城は甲子園で準優勝し、エネルギー革命で炭鉱不況に見舞われた町をわかせた。率いた監督は、俳優倍賞千恵子の弟で日大三(東京)の明(74)と日本大学で一塁手の座を争った須永憲史(76)だった。(五十嵐聖士郎)

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