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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 猛練習で鍛えられた磐城(福島)の地元、福島県いわき市は炭鉱の町として栄えた。地元の炭鉱会社には選手の親らが勤め、監督の須永憲史(76)が所属した野球チームもあった。

 須永は日本大学卒業後、1965(昭和40)年に常磐炭礦(じょうばんたんこう)(現常磐興産)に就職。会計課などで仕事する傍ら、社会人チーム「オール常磐」でプレーした。都市対抗野球にも出場する強豪で、66年にはベスト8に進んだ。東京の後楽園球場での試合には、常磐興産が運営する「常磐ハワイアンセンター」(現スパリゾートハワイアンズ)のフラガールが応援に駆けつけたこともあった。

 磐城や湯本、内郷(現いわき総合)などの地元の高校野球部では、須永ら社会人チームの元選手が指導し、レベルを引き上げた。社会人チームが使い古した高価な硬式球が、高校の練習球として提供されたこともあったという。

 磐城が夏の甲子園2年連続出場となった71年の第53回全国高校野球選手権大会。当時の二塁手、舟木正己(64)の父親も常磐炭礦に勤めていた。幼い頃の住まいは炭鉱近くに建てられた、いわゆる「ハーモニカ長屋」。父親の昇格に従い、間取りの広い部屋に引っ越した。

 炭鉱掘りは命がけの仕事で、舟木と同学年の部員の父は事故で亡くなった。ただ、それゆえに高収入の職業だった。両親が公務員だった中堅手の宗像治(64)は「小学生の頃は、大きくなったら炭鉱に勤めたいと憧れていた」と言う。

 エース番号を背負った田村隆寿(66)の父も常磐炭礦に勤め、社会人チームの練習場の近くで育ち、その練習風景が日常にあった。炭鉱住宅の近くには、炭鉱掘りで出た温泉の共同風呂があり、体を癒やせた。脱衣所で腕立て伏せをして、浴槽ではおわんを握った手で湯をかき、手首を鍛えた。

 ただ、舟木らが高校最後の年を迎えて甲子園を目指す71年、炭鉱の町は、エネルギー革命の波に揺れる。(五十嵐聖士郎)

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