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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 1971(昭和46)年の第53回全国高校野球選手権大会に出場した磐城(福島)の初戦は、優勝候補と目された東京の日大一。磐城は、日大一のエース保坂英二(64)らを研究して攻略し、1点をもぎ取った。

 保坂はテレビ放送が始まった1953(昭和28)年生まれ。急伸するテレビの部品を扱う工場を営む両親の元で育った。速球派左腕として1年から甲子園で登板し、2年の第52回大会では都城(宮崎)から17三振を奪った。3年の東京大会では6試合計48回を投げ、78奪三振をあげて甲子園に名乗りを上げた。

 その保坂が磐城戦で、マウンドに上がった。3年連続の夏の甲子園登板は、80~82年の早稲田実(当時は東東京)の荒木大輔、83~85年のPL学園(大阪)の桑田真澄に並ぶ記録だ。

 磐城は対戦前、保坂対策としてOBを呼び、プレートの5メートル前から投げてもらい目を慣らした。同時に監督の須永憲史(76)は、母校日本大学の関係者や、日大一の練習を見学した磐城関係者から情報を集めた。

 走者が盗塁するかは事前にわかる、保坂は走者に2度牽制(けんせい)することはない――。

 その通りだった。磐城は二回、連打を浴びるが、その度に盗塁を試みる走者を刺し、足を封じる。すると三回、磐城は連続三振の後、四球と安打で好機を作り、中堅手の宗像治(64)の適時打で1点を先制した。

 それが決勝点となった。磐城が放った安打は4本。11三振を喫したものの、エース田村隆寿(66)が緩急のある投球で5安打完封。朝日新聞は「優勝候補日大一が敗れる波乱」とし、「田村は『監督に打者のクセを二日間にわたって教えられた。だいたいその通りだった』といっている」と伝えた。

 保坂は現在、東京都文京区でバー「ラ・メール」を開く。「厳しい東京大会を突破して、満足してしまった。当時、相手を研究する野球なんてしていなかったよ。磐城の頭脳にやられたんだな」とカウンターで笑った。(五十嵐聖士郎)

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