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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 1971(昭和46)年の第53回全国高校野球選手権大会で準優勝した磐城(福島)に初戦で敗れた日大一(東京)。当時のエース保坂英二(64)が現在開く都内のバーの客に、同世代の三浦静加(65)がいる。

 71年7月23日、高校3年だった2人は東京大会の4回戦に臨んでいた。日大一の保坂は神宮第二球場で、打者全18人を17三振と内野ゴロ一つに抑え、6回コールドで封じた。一方、三浦は東京の商業高校、四商のマネジャーとして駒沢球場のスタンドにいた。スコアを記録し、声援を送っていた。

 三浦は中学時代、剣道部で活躍したが、多くの女子が手に職をつけようと進んだ商業高校に入った。中学3年の春、68年の第40回選抜大会で、いとこがいた埼玉の大宮工が初出場で初優勝した。三浦はテレビで観戦し、高校野球に魅了された。「マネジャーになりたい女子はたくさんいたけど、選手目当てがほとんど。私は純粋に高校野球が好きだったので、マネジャーとして誘われた」

 グラウンドをならすトンボがけや、ユニホームの洗濯。試合当日にはおにぎりを作って持参した。部費を稼ぐため、都内のレジャー施設「としまえん」でソフトクリームを売ったり、ビアガーデンでレジを打ったりとアルバイトもした。練習用の硬式球を手に入れるため、つてをたどってプロ野球関係者にお願いし、中古品を譲ってもらったこともあった。

 当時、女子部員は夏の大会のベンチには入れなかった。ただ、三浦は「自分のためではなく、チームのためと思えたから、苦労とは思わず、そこまでできたのだと思う」と話す。

 朝日新聞東京版によると、女子マネがいる都内の野球部は65年は十数校にとどまり、当時の紙面は「風紀上の問題を起こされては」との懸念が周囲にあると伝えているが、その後、71年には参加162校のうち約50校に増えた。60年代、次々と女子マネが誕生し、野球部の発展のために奮闘した。(五十嵐聖士郎)

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