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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 《第12章》

 昭和の怪物――。1973(昭和48)年、作新学院(栃木)の投手江川卓(すぐる)が甲子園に登場し、耳目を集める。

 左足を大きく上げて投じる剛球は「バットにかすりもしない」と評された。同年春の選抜で4強入りし、夏の第55回全国高校野球選手権大会では、栃木大会5試合中3試合を無安打無得点に抑えた。甲子園では2回戦で敗れたが、大会はのちにプロに進む広島商の達川光男ら話題に事欠かず、入場者が初めて計60万人超え。翌74年に金属バットが導入されると本塁打が量産され、球場はますます沸いた。

 「江川投手が登場したときには、全国の電力消費が発電所一個分ふえたといいます」

 延長18回の熱戦を演じた箕島(和歌山)と星稜(石川)の試合があった79年、石油ショックなどの電力危機から、国会ではそんな風に振り返る発言も出た。多くの国民がクーラーをつけ、テレビで甲子園観戦。電力消費に拍車をかけたというのだ。国会では「国民行事だが、実施時期や時間を考えてもいいのでは」とさえ言われた。

 80~82年、東京の早稲田実の投手荒木大輔が夏春5季連続で出場し、その端正な顔立ちでファンを増やした。また83年夏には、1年生の桑田真澄と清原和博を擁するPL学園(大阪)が頂点に立つ。彼らの姿にとりこになった少年たちが夏の主役となるのは、昭和と平成の時代の変わり目を迎える頃だった。

 前橋市郊外で育った小島英司(48)は83年秋、地元群馬で開かれた国民体育大会で、桑田、清原の「KKコンビ」を間近で見た。小島は当時中学1年生。

 「テレビの中の人を初めて見て、体の大きい人たちだなあと。試合を見ていたというより、たくさんの観客を見て、すごいなと思っていました」

 4年後、小島は地元公立高から甲子園に初出場し、PL学園に立ちはだかる。その後も野球の夢を追い続けさせることになる、本人にとって「最高の試合」を演じた。(五十嵐聖士郎)

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