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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 1987(昭和62)年の第69回全国高校野球選手権大会。優勝したPL学園(大阪)を終盤まで苦しめた中央(群馬、現中央中等)の小島英司(48)は試合直後、「今の自分に100点をつけたい」と振り返った。

 小島はその後、時代の波にもまれる。法政大学卒業後の93年、野球部のある北海道拓殖銀行に入行。しかし、91年のバブル崩壊で、多くの銀行が多額の不良債権を抱えていた。

 入行2年後の95年、拓銀は従業員削減や野球部休部などのリストラ計画を発表。97年に経営破綻(はたん)するが、小島はその前年に拓銀から提示された再就職先の一つ、JR北海道に転職して野球を続けた。32歳までプレーしたが、体格の変化や故障で、甲子園でのあの投球を超えることはできなかった。その後は道内の駅に勤務。駅で高校球児を見かけると、「頑張れー」と心の中でエールを送った。

 今年4月、小島は群馬の母校に寄った。監督を務める恩師の松本稔(57)が、部員に紹介して言った。「小島にはけがをさせて申し訳ないと思っている。私も気を使うが、皆もしっかりとケアをしなさい」

 PL学園と対戦した翌年の88年春、3年になった小島はひじを痛め、夏の群馬大会の初戦で負けた。松本は「小島の疲れ具合は把握していたつもりだが、春の連戦で無理をさせたのかなと思っている」と悔やむ。

 参加校数の増加で試合数が増え、変化球の多投で投手の負担は増していた。こうした問題に対応するため、日本高野連は93年夏の甲子園から、投手の肩とひじの検査を始めている。

 同年、Jリーグが開幕し、サッカーが人気を集めた。小島が野球を始めたきっかけとなった5歳年上の兄はサッカーに転向していた。のちの日本代表ゴールキーパー小島伸幸だ。

 バブル崩壊前年の90(平成2)年、第72回大会。地方大会の参加校数が4千校を初めて超えた。右手に特別仕様のグラブをしたある球児が、この大会で甲子園の芝生を踏んだ。(五十嵐聖士郎)

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