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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 宮崎県都城市の畜産農家で育った木山雄二(46)は1988(昭和63)年、地元の強豪、都城に入った。都城はそれまで夏の甲子園に5回出場し、4年前の春の選抜大会では4強入りしていた。木山の父、松雄(76)は「この子なら甲子園に行けると聞いて、まさかと半信半疑だった」。木山は裁断機に巻き込まれるけがで、右手の3本指の第2関節から先を失っていた。

 88年の夏前に朝日新聞が実施した世論調査によると、「高校野球に関心がある」と回答したのは3人に2人。高校野球ファンはプロ野球ファンの倍にのぼり、人気を集めていた。

 72年生まれの木山は、第2次ベビーブームの71~74年に生まれた「団塊ジュニア世代」。当時の出生数は約200万人と現在の倍。日本高野連によると、硬式野球部員数は調査を始めた82年から増加傾向にあり、木山が卒業直後の91年には15万人と、2001年までで最多だった。このうち一握りの選手しか立てない甲子園を目指し、多くの球児が競うように練習した。

 木山の夢を応援しようと、松雄は畜産の手伝いを命じ、体を鍛えさせようとした。自宅敷地にネットを張って、夜の打撃練習にも付き合った。

 当時、都城の部員は1学年20人ほどで、県外出身者もいたという。そのなかで木山は打力を買われ、入学直後から試合に出場することもあったという。

 ただ硬式球に変わり、指を失った右手にはめるグラブ、握るバットの使い方に慣れるのに人一倍苦労した。期待に応えようと、重りをつけた長い棒の両端を両手で握って回す特訓を繰り返し、腕力を鍛えた。

 「物心ついた頃から指がなかったので、不自由と考えたことはなかった。ただ、差別のような言葉をかけられたこともあって、野球をしていなかったら落ち込んでいたかもしれない」

 89年、2年の木山は宮崎大会3回戦で敗退したが、高校最後の夏を迎えた90年、大観衆が視線を注ぐグラウンドに立つことになる。(五十嵐聖士郎)

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