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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 平成の時代、日本列島は地震や水害など相次ぐ大災害に見舞われた。

 1995(平成7)年1月17日、阪神・淡路大震災が発生し、戦後50年の間に整備された住宅やインフラが崩壊した。2011年3月11日には東日本大震災が起き、津波や原発事故が被害を拡大させた。阪神大震災の犠牲者は6400人を超え、東日本大震災の死者・行方不明者は1万8千人を超える。

 生活が一変した被災地で、悩みながらも野球を続けた球児たちがいた。

 阪神大震災があった95年の第77回全国高校野球選手権大会に、兵庫代表として公立の尼崎北が初出場した。監督だった植田茂樹(54)は「この年に僕自身が一番変わったのかもしれない」と言う。突き上げるような揺れが襲い、尼崎北のある兵庫県尼崎市では約50人が犠牲になった。植田は隣の西宮市にある自宅が被災した。身重の妻らと無事だった神戸市内の親戚宅に避難。震災5日後に長女が生まれた。学校と避難先を往復する毎日。道中で街の惨状を目の当たりにした。県内だけでも約10万棟が全壊。グラウンドに復帰したのは、約1カ月後だった。

 監督不在の中、部員たちは震災1週間後に自主的に練習を再開した。当時の主将、有田隆行(40)は「尼崎の自宅は外壁にひびが入り、たんすが倒れる程度で済んだが、水道やガスはしばらく止まったまま。西宮や神戸などでの被害は大きく、野球をやっていいのかなとも思った」と振り返る。

 そうした中、自主練習に励む部員の姿を見た植田は心を動かされた。「それまで怒ってばかりだったが、生徒たちを信じるようになった。生徒と野球ができる喜びも大きかった」

 部員の絆も強くなった。主将の有田は「部員は地元の子ばかりで、みなが震災を経験し、共有した。震災の話をしたり助け合ったりで団結した」と話す。飛び抜けた選手のいない普通の高校生が、震災を力に変えた。(五十嵐聖士郎)

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