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 うその答弁に文書の改ざん、言いのがれ、開き直り――。民主主義をなり立たせる最低限のルールも倫理もない、異常な国会が幕を閉じて1週間になる。

 豪雨被害、そして酷暑に人々の関心は移り、不都合なもろもろを、このままなかったことにしてしまおうという為政者の思惑が、少しずつ、しかし着実に世の中を覆っていく。

 私たちの日本社会はいま、危うく、きわどい地点にさしかかっているのではないか。

 ■忠誠が生み出す罪悪

 来月3日まで東京・岩波ホールで公開されている映画「ゲッベルスと私」の主人公ブルンヒルデ・ポムゼルは、第2次大戦当時、ユダヤ人虐殺を進めたナチスの宣伝相ゲッベルスの秘書として働いた。顔に深いしわが刻まれた103歳が語る。

 「私は、言われたことを忠実にやっていた」

 彼女が担った役割は、ナチスの犯罪のごく末端にすぎない。だがそうした小さな悪の集積が大きなうねりとなり、当時のドイツを破滅に追いやった。

 「私に罪はない」とポムゼルは言う。たしかに自分もその一人ではあった。でも、みんなが同じく加担したのだ、と。

 ナチス親衛隊の元中佐で、ユダヤ人を強制収容所や絶滅収容所に送りこむ実務責任者だったアドルフ・アイヒマンを思い起こす人も少なくないだろう。

 戦後逃亡して1960年に逮捕された彼もまた、自らの裁判で、上司の命令と当時の法、つまり総統ヒトラーの意思に忠実だったまでで、自分に罪があるとは感じていないと述べた。法廷を傍聴した政治哲学者のハンナ・アーレントは、権威への追従が重大な罪につながる「悪の陳腐さ」を指摘している。

 大きな流れのなかで一人ひとりの罪の意識は薄まり、上に立つ者の意を踏まえた無責任の構造が、「悪」を行うことへの抵抗をなくしていく。

 ■奇っ怪な記録と記憶

 ナチスの所業と安易に対比することはできない。だが、森友問題でこの国の官僚が見せた態度に、相通じるものを見る。

 「文書の廃棄や改ざんの方向性を決定づけた」とされる当時の理財局長の下、多くの財務省職員が、およそ公務員にあるまじき行為に手を染めた。

 そもそも、優秀な官僚のはずの局長は、改ざんに走る以前に、なぜ基本的な事実関係すら確認せずに「記録はない」と虚偽の国会答弁をしたのか。この根本的な疑問に、財務省の調査報告書は答えていない。

 はっきりしているのは、「私や妻が関係していれば、首相も国会議員も辞める」と安倍首相が国会で発言した直後から、廃棄と改ざんに向けた動きが始まったということである。

 もう一方の加計学園問題でも不可思議な話が尽きない。

 元首相秘書官は、首相に不利に働く事実は頭の中からきれいに消えてしまい、その逆については鮮明に覚えているという、特異な記憶力を披瀝(ひれき)した。

 もうひとつ。獣医学部の新設をめぐって学園理事長と首相が面会していた旨の記載が、愛媛県の文書に残っていた。本当ならば、これまでの首相の答弁は根底から崩れる。すると突然、学園の事務局長が「私が県に誤った情報を伝えた」と言い出した。面会がないとしたら、前後の事実のつじつまが合わなくなるのに、お構いなしである。

 ジョージ・オーウェルの小説「一九八四年」の世界では、歴史は常に支配者の都合で書き換えられる。反抗した主人公は捕らえられ、「党」があらゆる記録や、個人の記憶まで管理するのだとたたき込まれる。

 首相の周辺で起きていることは、この約70年前に書かれた逆ユートピア小説に重なる。

 ■手遅れになる前に

 黒を白と言いくるめる。国会を愚弄(ぐろう)し、反対意見にまじめに向きあわない。権利や自由を縛る法律を力ずくで制定し、憲法を軽んじる。そんなことを続けても内閣支持率は底堅い。

 不満はあるが、経済はそこそこうまく回っているようだし、何よりとって代わる適任者が思い浮かばない。モリカケ問題が日々の生活に直接悪い影響を及ぼしているわけでもない。そんなところが理由だろうか。

 だが民主主義は、適正な手続きと真摯(しんし)な議論の交換があってはじめて成立する。その土台がいま、むしばまれつつある。

 危機の兆候を見逃したり、大したことにはなるまいと思ったりしているうちに、抜き差しならぬ事態に立ち至る。歴史が警告するところだ。

 そうさせないために何をすればいいか。政治への関心を失わず、様々なルートや機会を通じて、社会とかかわり続ける。あきらめずに行動し、多様な価値観が並び立つ世界を維持する。それらを積み重ねることが、くらしを守る盾になるだろう。

 なんだか息苦しい。そう感じたときには、もう空気が切れかかっているかもしれないのだ。

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