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 子どもたちが暮らしの中から自ら問いを立て、自由に語り合う。「哲学対話」と呼ばれる試みが広がっている。

 学校に公民館、図書館、美術館、カフェ、書店。10人ほどが車座になり、順にボールを回すなどしながら会話をつなぐ。

 たとえば「どんなときに自由を感じるか」をめぐって、小学生が「宿題が終わったとき」と答える。「不自由があるから自由がうれしい。100%自由だと物足りない」。そんな発言をきっかけに、「では、ちょうどいい自由って何だろう」と議論は発展していく。

 正解はないし、それを求めるのが目的ではない。

 各地の集まりに講師を派遣したり、入門の講座を開いたりしているNPOのメンバーのひとり、河野(こうの)哲也・立教大学教授は参加者にこう声をかける。

 友達の話にゆっくり耳を傾けよう。自分の言葉で自由に語ろう。批判は大いに結構。でも人格攻撃はいけない。勝ち負けを競う場ではないから、人の話を聞き、自分の意見を変えるのもステキなことだよ――。

 哲学対話それ自体に年齢制限はなく、企業が行うものやお年寄りが参加する企画もある。だが、固定観念や偏見にとらわれがちな大人よりも、若い世代のほうが柔軟に考え、語る力を発揮するという。

 学力や対人関係などで困難を抱える生徒の多い大阪府の高校も、この試みに取り組んだ。意見を求められることに戸惑い、私語も多かった生徒たちだが、ふだん口数の少ない女子が声を振り絞るようにして1学期の思い出を語ると、教室が静まり返り、共感の拍手に包まれた。

 「大切なのは、みんなでハイキングに出かけようという発想」。大阪大学特任講師の高橋綾さんの言葉だ。

 同じ考えの者同士で固まり、異見を排除・無視し、社会の分断が深刻化する今だからこそ、こうした営みを大切にしたい。他者への理解を育み、未来を切りひらく一歩にできないか。

 心配もある。哲学対話は道徳の授業にとり入れられるなどしてすそ野を広げてきた。その道徳が正規の教科になり、定められた学習指導要領に基づいて教え、子どもを評価しなければならなくなった。

 やり方を間違えると、せっかくの対話が、教師が考える規範や価値観に子どもを誘導するための道具になりかねない。

 「小さなソクラテス」を生み、育てる。それは、大人が対話の意義をどれだけ理解し、重んじるかにかかっている。

 <訂正して、おわびします>

 ▼27日付オピニオン面の社説「子ども哲学」で、道徳が教科化されることに伴い、「子どもに点数をつけ、評価しなければならなくなった」とあるのは「子どもを評価しなければならなくなった」の誤りでした。学習指導要領には「数値などによる評価は行わないものとする」と書かれていました。

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