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 熊本と新潟で発生した水俣病を、政府が「公害病」と認定してから50年になる。

 これだけの長い時間が経ったにもかかわらず、いまも訴訟が続き、患者に対する心ない中傷と差別、そして補償の有無や金額をめぐる対立・葛藤が、地域に暗い影を落とす。

 認定は68年9月26日。熊本で患者の発生が最初に報告(公式確認)されてから、実に12年が過ぎていた。原因企業のチッソはこの年の5月まで、大量のメチル水銀を不知火海に排出し続けた。対応の遅れは膨大な患者を生み、昭和電工による新潟水俣病の被害ももたらした。

 認定時に政府がとりまとめた見解にあらためて目を通すと、事実に基づかない、きわめて不誠実な内容に驚く。

 水俣湾内の魚介類を食べることを禁止し、チッソ工場の排水処理施設を整備したことによって、患者は60年以降出ていないとして「終息」を宣言。補償問題も民事上の和解が成立しているとして、幕引きを図った。

 だが摂食禁止は有名無実で、施設も水銀を完全に除く機能はなく、汚染は止まらなかった。和解も、圧倒的に強い立場のチッソが、新たな要求はしないと患者に約束させたうえで低額の見舞金を支払う内容で、73年に熊本地裁が「公序良俗に反する」と述べ、無効とした。

 その後も新たな患者の存在が次々と明らかになり、現在、新潟を含む全国の裁判所で1500人以上が被害を争い、水俣病と認定するよう申請している人は2千人にのぼる。

 「終息」にほど遠い状況を作りだした大きな原因は、行政のかたくなな態度にある。

 患者の認定制度は対象を絞り込む装置として機能し続け、最高裁が幅広く救済する判決を言い渡しても、政府は基準を見直さない。このため司法に助けを求める動きが繰り返される。

 被害の実態も本当のところはわかっていない。民間医師団が自分たちの検診活動の結果と政策とのギャップに驚き、住民たちの広範な健康調査の必要性を訴えても、政府が一切応じないからだ。高齢になって症状の悪化を訴える被害者は少なくないが、その日常を支える体制も十分とはとても言えない。

 人の生命や健康よりも産業の振興が優先され、政官産学のもたれ合いの中で真相が覆い隠される。それが水俣病の歴史だ。そしてそのゆがんだ構造は、克服されないまま日本社会の中に厳然としてある。

 公害病認定から半世紀。「水俣病」は終わっていない。

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