[PR]

 誰かが問題を起こしたとき、仲間も責任を問われ、罰せられることがある連帯責任。理不尽さの一方で、組織運営上は利点もあるとの指摘も。その功罪を、見つめ直してみた。

 ■管理主義強まり息苦しく 為末大さん(元陸上選手)

 スポーツの世界では最近、悪質タックル問題で日大アメフト部の今季のリーグ戦への参加が認められなかったことが話題になりましたね。あの騒動を見たスポーツチームの中には「うちは大丈夫か」と管理を強める方向に走るケースもあるだろうな、と思いました。残念ですが、企業でもこうした反応はありがちでしょう。

 私は陸上という個人競技の世界にいたので、連帯責任が問われるような場面に遭遇した経験はありません。

 ただ、チーム競技では、集団のために個人があると考えないと成り立ちにくいところがある。一方で個人の価値観としては、受け入れがたいものも出てくるわけで、スポーツはそういうぎりぎりのところを動いているものです。

 私が現役時代に練習拠点にした米国では、選手個人と組織の責任の線引きは明確でした。陸上競技では、選手がコーチを雇うという関係性です。指導者も技術的なコーチのほか、トレーナーや栄養面を見る人間と分業化されていて、そこに連帯責任は組み込みにくい。特にプロスポーツであれば、選手のドーピングが発覚しても、コーチは「私もだまされた」といえます。

 日本では「君が問題を起こせば、チームのみんなに迷惑をかけるよ」といえば管理しやすくなる。社会を見渡しても、よく統率され、細かいルールを決めなくても協調して動く組織の場合、連帯責任の考え方が利いている分、個人の幸せは相当に減るのだろうなと感じます。

 たとえば、公園で禁止されているボール遊びでトラブルが起きても、まず当事者間の話し合いで解決を図ればいいのではないでしょうか。集団や組織の責任を問うほど組織からの管理主義が強まり、社会ががんじがらめになる。息苦しく感じます。

 個人の時間に個人が起こした問題も集団の問題だというなら、個人の時間にも組織が介入してくる構造になります。「チームや組織が大きくなれば、いろんなひとがいて問題も起きるよね」と一歩引いて考えてみるべきではないでしょうか。

 実際、スポーツ界もそういう方向に変わりつつあるとは感じています。変化の理由のひとつは、選手がスポーツの外の世界に触れ、海外スポーツの状況を知ったこと。ソーシャルメディアの存在も大きい。当たり前だと思っていたことが、そうではないと気づいたのです。

 ひとつの組織に帰属していた時代に連帯責任は機能しました。しかし、これから肩書が複数になったり、利益相反の関係が複雑になったり、組織の連帯も弱くなっていく時代です。そういう意味では今後、連帯責任を問うことは難しくなっていくと思います。

 (聞き手・潮智史)

    *

 ためすえだい 1978年生まれ。陸上男子400メートル障害で世界選手権2度の銅メダル。2012年引退し、講演、著作など幅広く活動。

 ■各自が自律的なら利点も 菊澤研宗さん(慶応義塾大学教授)

 企業経営の現場、働く現場も連帯責任と無縁ではありません。それがどんな効果を生むのか。制度論的に考えると問題が起こる前と後とで、がらりと様相が変わる点が特徴的です。

 うまくいっている時は、各自が他人に迷惑をかけないように努力します。相互に点検し、協力し合って失敗を減らすので、効率はよくなる。そうした点は、この制度のプラス面と言えるでしょう。

 でも、もしだれかがミスをすれば、全員が罰を受ける。失敗していない仲間にも被害が及び、組織は危機に陥ります。それを回避するため、組織的な隠蔽(いんぺい)が発生します。そうなると、連帯責任はあしき制度になりさがる。

 なぜそうなるのか。メンバーが機械のように損得を計算するからです。ミスを公表して全員が罰せられるよりも、隠蔽した方が計算上は得だからです。自分を取り巻く外部の状況を考慮し、損得に基づく行動は自分以外に原因があるので他律的と呼ばれます。こんな集団に、みなで責任を負う仕組みを持ち込むと、危険だということです。

 大事なことは人間力を発揮することです。損得を計算した上で、主体的に価値を判断する必要がある。どんな組織でも、まずリーダーが目標やルールをきちんと説明し、損得に加えて正しいかどうか、好きか嫌いか、メンバーに多面的に判断させるのです。

 メンバーが主体的に受け入れていれば、たとえ目標やルールに不備があっても、それを守る責任が各自に生じる。ミスが起きても隠蔽することなく公表し、あえて罰を受ける覚悟ができるでしょう。

 企業も同じです。長い歴史を持つ会社には、給与が高いからという打算だけでなく、「この会社が好き」という社員が少なくありません。そうした社員は、会社が赤字になっても退職することなく、むしろ一致団結して会社のために頑張るでしょう。

 連帯責任は日本的な仕組みかもしれないですね。個人主義的な欧米から見れば、異質に映るでしょう。政治学的視点に立てば、連帯責任は個人を否定し、全体主義的なので「悪」に見えるかもしれません。でも悪い面ばかりではないからこそ淘汰(とうた)されずに残っているのだと思います。

 集団の中で働き、ときには自己を犠牲にし、ときには一人のミスのために全員で耐える。非合理的に見えるかもしれません。しかし、そこに機械にはない人間的な魅力があり、美学がある。

 この仕組みがプラスに働くには、リーダーはもとよりメンバー一人ひとりが即物的な損得計算だけではなく、人間として主体的に価値判断し、その責任を取る自律的な存在であることが不可欠です。とても興味深いテーマですね。

 (聞き手・西山良太郎)

    *

 きくざわけんしゅう 1957年生まれ。専門は経営学。「新制度派経済学」に基づき、企業組織をめぐる不条理な現象を研究している。

 ■古代から相互監視の制度 本郷和人さん(東京大学史料編纂所教授)

 中国で紀元前300年代の秦に、商鞅(しょうおう)という政治家がいて、集団で助け合い、監視し合い、税を払うように庶民の支配を進めました。中国の影響が大きかった日本も、連帯責任という考え方は古くからみられます。

 「律令」という法があった古代、700年ごろには「保(ほ)」という連帯責任の制度がありました。五つの家で助け合って年貢を払うことを定めた制度が「五保」です。

 鎌倉時代には、武士の中で血縁重視の連座の考え方がありました。源義経の義父、河越重頼は、義経が謀反人になって処刑されました。刑を命じたのは「あなたの娘を義経の妻に」と頼んだ頼朝ですが、歴史書の吾妻鏡にはそれを非難する表現はない。そんなことは当たり前だったのでしょうか。室町時代には、借金を返せない者と同じ国、あるいは郷の出身者を人質にしました。しかし、赤の他人が人質になることもあって、あまり機能しませんでした。

 機能したのは、江戸時代の五人組です。集団で一定の年貢を納める連帯責任があり、権力が税をまちがいなく取るため、また、キリシタンや犯罪人などを監視し合うための陰湿なものでした。

 明治になると、個人を大事にする意識が出始めますが、太平洋戦争で権力に都合のいい仕組みがまた復活します。国民が監視し合う「隣組」です。出身地域ごとに集団を組む軍隊で、上官の命令を守らずに自分だけが逃げると、家族が地域社会でひどい目に遭う。だから日本の兵は玉砕したのではないでしょうか。

 連帯責任は権力が一人ひとりの権利を踏みにじることにもなり、注意しないと泣く個人が出ます。連帯責任を強いるのは簡単ですが、原因究明と再発防止があいまいにもなります。本当に悪いのは誰かの解明は面倒で、だから「みんなで責任を取れ」となる。

 今では多くの人が、こうした制度には慎重であるべきだと感じていますが、連帯責任という発想は根強く残ってもいます。都会から田舎に移り住もうとする若い人はそれなりにいますが、ゴミ出しなどでお互いを監視するしきたりが強く残る中で耐えられず定着できない、という話を聞くこともあります。

 犯罪者の家族が「あいつの家は……」とSNSでさらされることもありますね。自然災害が起きた際の「不謹慎狩り」や自粛を強いる空気もあります。その結果、罪のない者が罰を受けたとしたら、大きな問題です。

 私もかつて、授業で態度の悪い学生がいたときに、あまりに腹が立ったので授業そのものを打ち切ろうとしたことがあります。でも、まじめに臨んでいた学生は被害者です。そういうことは、やっちゃいけませんよね。

 (聞き手・後藤太輔)

    *

 ほんごうかずと 1960年生まれ。専門は日本中世政治史。著書に「日本史のツボ」、「日本史のミカタ」(共著)など。

こんなニュースも