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 創刊から140年。この間に2度の世界大戦がありました。大きな災害もありました。社会を取り巻く環境は大きく変わりましたが、ニュースの隣にはいつも、読者の「コトバ」がありました。「朝日俳壇」「朝日歌壇」「声」「ひととき」――。読者のみなさんとともに歩んだ日々を振り返ります。

 投稿は東京本社版紙面に掲載されたものです(一部省略しています)。投稿者の年齢や肩書は当時。

 ■明治から大正期 啄木が選んだ読者の歌

雲雀(ひばり)鳴(な)いて上汐(あげしほ)駛(はや)き夕渡(ゆふわたし)(黄耳)

 ――樋口銅牛選。初めて掲載された朝日俳壇で一席に選ばれた句。移ろいやすい海沿いの夕景を繊細な感覚でとらえている。【1907年4月28日】

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旅に来て小雨の窓に遠く聞く蓄音機こそ悲しかりけれ(新島絹舟)

 ――最初の朝日歌壇に掲載された一首。選者は石川啄木。【1910年9月15日】

 <毎週7~8千通>

 幼稚園児から100歳以上まで、読者から毎週計7、8千通のはがきが寄せられるコーナーがある。週1回、日曜日掲載の「朝日俳壇」と「朝日歌壇」だ。

 それぞれ4人の選者が俳壇は週1回、歌壇は2週に1回、東京本社に集まり、すべてのはがきに目を通して、10ずつ選ぶ。「朝日俳壇」は1907年に登場。「朝日歌壇」は10年、朝日新聞の校正係だった石川啄木を選者に歴史を刻み始めた。

 ■昭和前期 戦争と復興、庶民の視線

 「満蒙の実相」 満州国建設の光を見ると(略)、どんどん満州さして視察旅行に行つてくる。撫順(ぶじゅん)炭坑の露天掘を見、(略)石炭は無尽蔵だ、木材はどうだ、(略)我々日本人のくるのを、手をさしのべて待つてゐる(略)と、各所で講演する。

 鉄道のない北満の奥地に石炭や木材が無尽蔵であつても、どうすることも出来ない。(略)が、一般人はとてもこんな不景気な話を喜ばない。大言壮語のホラ視察談に血をわかしてゐる。

 私は人々に正しき知識を与へたいと思ふ。新聞や雑誌は美化されない正確な報道をしてもらひたい。(彌一郎)

 ――満州事変についての「鉄箒(てっそう)(「声」の前身)」【1932年7月6日】

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 「新憲法の成立」 新憲法が成立した。われわれは自由だ、われわれは良心の命ずるところに従つて「善」と信じたことを、いまや何人からの妨害も干渉も圧迫もなく、自由に大胆に行動することができるのだ。

 自由、平等、基本的人権の確立とは何か。それは放縦でも気儘(まま)でも無秩序でも横暴でも冷淡でも利己でもない。それは自分でよく考へ、よく研究するのがいゝのだ。

 立派な国民生活を営み得るだけの精神と態度を身につけねばならない。この千載一遇の憲法を生かすのも殺すのも、われわれ国民自身なのだ。(鎌倉・金谷次郎=鎌倉市観光課嘱託)

 ――新憲法成立についての「声」【1946年11月4日】

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 「英語の音頭」 私は米人の家に働いておりますが、その一家と熱海に泊った時のことです。日本人のパーティが珍しいというので主人たちが見たところ、その宴会の一老人はアメリカ人の視線を意識したのでしょう、ワン、ツー、スリー、フォア…と音頭をとりだしたそうです。講和発効も近く、いよいよ独立国家になろうとしているこのごろ、私はよく考えるのです。政府はなぜ熱海の宿の一老人がしたようにワン、ツー、スリーと踊ってみせるのかしらと。憲法問題にしろ、再軍備にしろ……

 私たちは、こんな調子に誘いこまれないで、今こそ自由に自主的にものごとを判断し、住みよい国にするように努力しないと、またまた苦しみや悲しみで押しつぶされるようになると思います。(練馬・塩谷愛子)

 ――サンフランシスコ講和条約発効直前の「ひととき」【1952年4月22日】

 <自由な議論の場>

 一人ひとりの声が共感や反論、新たな提案を生む。

 社会への意見表明、自由な議論の場として親しまれているのが「声」欄だ。1917年、記者の随筆欄「鉄箒(てっそう)」に読者の投稿が掲載されたのが始まり。掲載は毎日で、2ページだった終戦翌日の新聞(大阪本社版)にも載った。戦中は編集者が「なぜ持てぬ特攻隊魂」と題したコラムを書くなど、戦意高揚の一端も担った。

 一方、「参政権をもつ新しい女性たち」のために、51年に設けられた投稿欄が「ひととき」。各地に投稿者のグループを生んだ。2007年には「男のひといき」も誕生した。

 ■昭和後期 五輪・沖縄、思い今も響く

勝つまでデモ今日は梅雨着の妻送る(東京都 酒井彩雨)

 ――中村草田男選。日米安保条約改定に反対するデモが全国で起きた。その影響は一般家庭にも波及した。【1960年6月17日】

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 「胸を熱くした五輪開会式」 それは世紀の祭典というが、開会式の場景を見るまでは本当のところぴんとこなかった。(略)

 日の丸の小旗をふりふり入場行進するキューバの選手団の場面では、ついにこらえていたものがほおを伝わって流れた。お国柄の衣装をまとったガーナの入場も印象的だった。アフリカの友が日本でのオリンピックに参加してくれたのだ。戦争にうち砕かれた日本が、かくもりっぱに立直ったのだ。それを世界の若人たちがその目で確かめてくれるだろう。日本の選手がんばれ、世界各国の若き友に栄光あれ。(三鷹市 見留正剛 学生 21歳)

 ――東京五輪についての「声」【1964年10月15日】

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聖火燃ゆるグランドも彼の日は雨なりき君出で征きし二十年前(水戸市 飯田久夫)

 ――五島美代子、近藤芳美、宮柊二共選。平和の祭典を満喫する若人たちの姿に、戦地で散った同じ年頃の若人たちの無念を思う。【1964年11月1日】

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 「うれしいけど基地に不安が」 まず佐藤首相にお礼を申上げたい。といっても、全面的に満足しているわけではありません。戦後、多くの沖縄の人々の働き場所は基地しかありませんでした。基地で働きながら、基地撤去を叫ばなければならない矛盾と苦悩は、今も続いているのです。正直にいって、通貨不安からくる混迷と動揺で復帰の日を迎える余裕もない有様ですが、それでも本土復帰は間違いなくうれしい日です。新生沖縄が、基地の島の宿命から完全にのがれますように祈りながら。(那覇市 比嘉春子 主婦 43歳)

 ――沖縄復帰に寄せられた「声」【1972年5月15日】

 ■平成から新時代へ 15歳、避難所からの投稿

昭和終る空襲寒き日の記憶(浜松市 大石くにを)

 ――金子兜太選。昭和天皇が逝去した日のひんやりした時代の空気と、自身の戦争体験を重ねて詠む句が寄せられた。【1989年2月26日】

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 「助けて下さい 瓦礫と灰の町」 僕たちはいま、小学校の教室で共同生活をしています。家が崩壊して、火災が発生し、生命だけが財産になりました。

 小学校には遺体が続々と運ばれています。校舎に入りきれない人たちは運動場で寒さをこらえ、野営をしています。まず飲料水が足りません。トイレも運動場を掘って作りました。それでも、みんなで助け合って、お年寄りの世話や夜具の譲り合いをしています。温かい心のつながりで、支え合っています。静かな住宅街は瓦礫(がれき)と灰の町になりました。全国のみなさん、ご援助をお願いします。(神戸市 泉裕介 高校生 15歳)

 ――阪神大震災から1週間後の「声」【1995年1月24日】

 <励まし・出会い、生きる支えに>

 投稿が出会いを生み、出会いが生きる支えになることもある。「声」欄に載った「助けて下さい 瓦礫と灰の町」はそんな一つだ。阪神大震災に遭い、神戸の自宅を失った会社員、泉裕介さん(39)が避難先の小学校の講堂から投稿した。

 当時、高校生。ボロボロの服で大阪の商店街に立ち寄ると、靴屋さんから「高校生の投稿を読んで被災地に物資を送った」と新聞の切り抜きを見せられた。「それは私です」と伝えると、靴屋さんは泣き出した。がれきの中を歩けるようにブーツを買ったが、500円しか受け取らなかった。

 泉さんには、読者から励ましの手紙や辞書が届いた。「あんな小さなスペースの一本の投稿が、こんなにも人の心を揺さぶったのかと驚きました」。いまは2児の父。東京で暮らす。東日本大震災もあった。「人は温かいということ、助け合うことが大切だということを伝えていきたい」。仕事が忙しくて休んでいた投稿を再開するつもりだ。

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平成の次のみ世待つ日記買ふ(東京都 長谷川瞳)

 ――長谷川櫂選。「平成」の先に、どんな未来が待っているのか。今はまだまっしろなページが、平和で思いやりに満ちたことばで埋まることを祈りつつ。【2019年1月13日】

 ◆この企画は赤田康和、岡恵里、木村司、国沢利栄、栗田優美、塩谷祐一、樋口大二が担当しました。

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