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 贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に

 平成最後となる今年の「歌会始の儀」で、天皇陛下が詠まれた歌です。1995年1月の阪神・淡路大震災で犠牲になった、当時小学6年生の加藤はるかさんの自宅跡に、その夏咲いた「はるかのひまわり」の種を譲り受け、陛下が御所の庭で育ててこられた“復興と鎮魂”のシンボルです。

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 長崎県・雲仙普賢岳の噴火に始まり、相次いで大災害に見舞われた平成の時代。観測史上初の震度7が襲い、都市型災害への備えを根本的に見直すきっかけになったのが、阪神・淡路大震災でした。朝日新聞大阪本社・地階の宿直室に泊まり込んでいた関岡哲哉さん(当時、大阪本社社会部記者、現東京本社編集局長補佐)は、激しい揺れに跳び起きると、情報収集と状況把握にあたりました。そこに、「阪神高速からバスが落ちかけている」という読者からの通報が入ります。「えーっ、ウソやろう」。驚愕(きょうがく)の声があがります。

 「大都市を見舞った、とてつもない大災害。死者6434人、住宅の全半壊が約25万棟にのぼる大惨事になろうとは、もちろんすぐにはわかりません。報道する人間が被災当事者でもあるという事態。政府の初動の遅れや危機管理の欠如。関連死、心的外傷後ストレス障害(PTSD)など、想定外の問題の噴出。あまたの教訓と試練にさらされた出来事です。後の新潟県中越地震、東日本大震災、熊本地震などの大規模災害が起こるたびに、その体験が上書きされました。新聞人として何をなすべきか、いまなお問い続けています」

 やがて朝日新聞では、「防災」「減災」を意識した大型企画(「防災力」「新防災力」など)が始まります。2011年の東日本大震災では、被災者に寄り添う取材をという発意から、岩手、宮城、福島3県に駐在する記者を震災2カ月後に30人規模で増員。これまで取材拠点のなかった被災地に記者が移住し、被災者とともに暮らしながら情報発信に努めます。

 東日本大震災後1年に際しては「いま伝えたい 千人の声」として、被災者の生の証言を丹念に聞き取ります(以後も毎年継続しています)。首都直下地震や南海トラフ地震などを視野に入れた「災害大国 迫る危機」「災害大国 あすへの備え」「災害大国 被害に学ぶ」のシリーズは、現在も月1回程度のペースで続きます。こうしたフォローアップの象徴が、「プロメテウスの罠(わな)」に続いて、東北被災地の現在などを伝える「てんでんこ」の連載です。

 先述の駐在記者として岩手県大槌町に3年間居住した東野真和さんは、現在東京本社編集委員(災害・復興担当)としてこの連載を書き続ける一人です。

 「日が経つにつれ、関心が薄れていくのはやむを得ません。ただ、風化させてはいけない、忘れてはいけないという思いがあります。被災地に典型的に表れた問題の本質をあぶり出すと、他地域にも共通する人口減少や高齢化、インフラ整備といった普遍的な問題が浮かび上がります。未解決の問題も山積しています」

 「……たしかに読者がこぞって読んでくれるわけではない。紙幅には限りがある。優先すべきニュースがあるのも確かです。しかし、入社間もない若手からベテランまで、70人以上もの記者が関わる『てんでんこ』のような欄は他に例がない。読者の読みたい記事だけでなく、われわれが読んでもらいたい記事をどれだけ届けるかもメディアの役割ではないか」

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 読者から寄せられた声には、「人は、忘れて前に進む生き物です。ですが、それは、災害を忘れてよいということではありません」「これからも必ず起きる災害に対し、警告の意味も含め……どう乗り越えるべきかを伝えてほしい」といった支持が根強くあります。一方で、伝える側に“やり尽くした感”はないのか? そう尋ねた時の、関岡さんの答えは明確でした。

 「阪神・淡路以降も自然災害が繰り返し続いたことで、災害報道に携わった記者の数、経験は蓄積されています。あの時、被害状況や避難情報をもっと適切に伝えられていれば、救えた命があったのではないか――。現場を体験した記者たちは、それぞれの思いをいまだに引きずっています。新たな企画の提案が現場から湧き上がっているのが現状です」

 平時における「災害報道」をどう展開するか。過去の教訓をいかに次代につないでゆくか。東日本大震災から8年、平成最後の紙面にその意味でも注目したいと思います。

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 こうの・みちかず 1953年生まれ。ほぼ日の学校長、編集者。「婦人公論」「中央公論」「考える人」の編集長を歴任した。

 ◇朝日新聞社は読者の皆様の声を紙面づくりに生かすため、第27期(4~9月)の「紙面モニター」300人を募集します。http://t.asahi.com/shimen別ウインドウで開きますから。

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