[PR]

 1938年1月、日本軍による制圧から2カ月後の上海。占領地に孤島のように浮かぶ外国人居留地・租界での華やかな夜会の中心に、財閥令嬢と結婚したばかりの若きエリート軍人、關東軍の間久部緑郎少佐がいた。有頂天の緑郎だが、妻・麗奈との間にはすでに溝が。妻と踊る見知らぬ美女に目を奪われる緑郎に、恩師で生物学者の猿田博士が声をかける。「火の鳥」の伝説を知っているか、と――。手塚治虫が残した構想をなぞりながら、桜庭一樹さんが紡ぐ巨大な物語が動き始めた。

 

「“火の鳥”ですって?」

 と、緑郎は聞き返した。

 ――遥(はる)か古代から、世界のあちこちで目撃され、いつしか伝説となった不思議な鳥。それが“火の鳥”だ。燃え盛る火から生まれた不老不死の生物であり、その生き血を飲む者もまた不老不死となる。鳥は死んでもまた炎の中から蘇(よみがえ)る、と。

 この鳥は、宇宙の摂理のすべてを知る、古代神のような存在だとも、未来に繋(つな)がる、完全なる超生命体だとも論じられてきた。中国では鳳凰(ほうおう)、欧州では不死鳥(フェニックス)と呼ばれ、数千年もの間、人間の畏怖(いふ)と憧憬(しょうけい)を誘ってやまなかった。

「じつはな、間久部くん。十六世紀を最後に、火の鳥の目撃談は途絶えていた。それが二十世紀になり、とある場所でな……」

「ふむ、とある場所とは?」

「この中国大陸じゃよ」

 と、猿田博士は目を細めてうなずいてみせた。

「広大な大陸の遥かなる西域、シルクロードにあるタクラマカン砂漠。“さまよえる湖”と呼ばれるロプノール湖を知っておるかね? 湖畔にかつて楼蘭という吹けば飛ぶような小国もあった」

「ふむ」

「その湖周辺の動植物に、長寿と、極めて強い活力が認められ、一時は清(一九一二年に消滅した中国の巨大帝国)の女帝たる西太后が調査隊を派遣したこともあったらしい。わしの研究により、生態系に“未知のホルモン”が影響する可能性が浮上した。それがどうやら火の鳥の……」

「ちょっと待ってください。博士」

 と、緑郎が不審そうに口をはさんだ。

「ご存知(ぞんじ)の通り、ぼくはロマンチストとは正反対の性格でしてねぇ。不老不死の鳥なんて話、そうそう信じられません。それにです。もし仮にそれが本当なら、そんな機密事項を、なぜぼくに教えてくれるんです?」

「ははは。その答えが、どうやら、向こうからやってきたようじゃよ」

 と猿田博士が指さすほうを、緑郎は振りむいた。ちょうど若い部下が急いでやってくるところだった。敬礼して、「間久部少佐、大本営(日本軍の最高司令部)の犬山元帥がお呼びです。すぐに来いと」と言う。

 緑郎はうなずき、ついで、窺(うかが)うように猿田博士の顔を見やった。博士はウインクしてみせ、

「じつはな、間久部くん。日本軍が現地調査隊を出すことになり、わしが君を隊長に推薦したのじゃ。何しろ君は頭がよく、現実的な男だ。そういうタイプこそ適任だろう、とな」

 緑郎は「む、む、なるほど……」とうなずいた。そして「では、失礼!」と急ぎ立ち去っていった。

 

 

「ねぇ、ルイ。冷伐(ランバ)(寒い)? 冷伐? 冷伐?」

 キャセイ・ホテルの屋上は、真冬の冷気で凍えるような気温だった。麻のズボンに布靴という粗末ななりをした男が二人、石製の手すりに荒縄を縛りながら、

「ウン、正人(まさと)。ボク、寒いよ」

「じゃ、これ着て。これも。……ヘックシュン!」

 正人と呼ばれた、おだやかな顔つきをした背の高い青年が、半纏(はんてん)も、その下の麻の上着も脱ぎ、もう一人に渡した。ルイと呼ばれたほうは、まだ十代の若さながら、切れ長の目をした凄(すご)みのある美貌(びぼう)の中国人だった。ルイが半纏と上着を着こむと、正人はニコッとした。

 二人して、危なっかしい様子で荒縄を伝い、最上階のバルコニーに降り立つ。カーテン越しに覗(のぞ)きこんで、「日本人の夜会か」「誰がきてるか調べなきゃね」とフランス窓を開け、薄暗い廊下に踏み出した。

 と、手前の右側の部屋から、軍人らしき押し殺した話し声が聞こえてきたので、二人はそーっと近づき、飾り格子越しに室内を覗いてみた。

「ルイ……。手前にいる大柄な男は、大本営の元帥だよ……。確か犬山という男だ。六十代になっても軍に籍を置き続け、昔からの秘密任務の存在を噂(うわさ)されてる……」

「そんな奴(やつ)がいま上海にきてるのか。何か、臭うね」

「ほんとだね。で、向かい側に立ってる男は……」

 と正人は室内に目を走らせると、息を呑(の)み、

「なんと、ぼくの兄さんだぞ!?」

 ルイも「へぇー」と背伸びして室内を覗きこみ、

「君の兄さんって、えっと、緑郎だっけ。正人、ボクにはね。君のような同志(ドンズ)と、悪名高き關東軍(かんとうぐん)の少佐なんかが、血を分けた兄弟だとは、とても信じられないよ」

 正人は拳を強く握り、悲しそうにうつむいた。

「うん……。ぼくと兄さんの生きる道は、だいぶん前に分かれてしまったんだ。一九二三年の夏に……」

 ルイが「えっ、いつの夏だって?」と聞いたとき、室内から緑郎の大きな声が聞こえてきた。

『ファイアー・バード計画ですと!』

 正人とルイははっと視線を交わしあった。正人が小声で上海語に通訳する。それから二人して、扉に耳をつけて熱心に盗み聞きし始めた。

 

 

 室内には、犬山元帥と、部下の向内大将、間久部緑郎がいた。犬山元帥は六十代半ばで、筋骨隆々とした体つきを誇る大柄な男だった。

「そうなのだよ。間久部くん、件(くだん)の鳥は、十六世紀の初め、ロプノール湖周辺で目撃されたのを最後に姿を消したのだ。そしてその頃から、湖周辺の生態系が変容した、と……。猿田博士は、変容の原因である“未知のホルモン”の研究を長年続けておられてな」

 と、犬山元帥の朗々とした声が響き渡る。

「そのホルモンとやらが、博士の主張通り、不老不死の鳥のものなのか、それとも、自然が起こした何がしかの突然変異なのかは、正直、我々軍部の興味の範疇(はんちゅう)ではない。それが何であれ、現実に存在するのなら……」

 緑郎は背筋を伸ばし、真剣に聞いている。

「皇軍の士気高揚に有効利用する。これがファイアー・バード計画だ!」

 緑郎は「はっ!」と靴を鳴らして敬礼した。

「で、その現地調査隊を、私に任せて下さると?」

「うむ、そういうわけだ。しかしだよ、間久部くん。この大陸において、西域への道の多くは、残念ながらまだ我々の支配下にない。中国国民党、軍閥(土地を支配する武装勢力)、旧ロシア帝国の残党など、さまざまな民族や組織が跋扈(ばっこ)する危険地帯だ。道無き道を進む大冒険となるだろう。複数のガイドを雇う必要もある。さっそく向内大将と詳細を詰めたまえ」

 犬山元帥は、ふと声を落として、

「ここだけの話だがね。現地調査隊にはスポンサーがいるのだ。君の義父上(ちちうえ)である三田村財閥の会長だよ。つまり君にとっては、より失敗の許されない任務と言える。成功の暁には二階級特進を約束しよう」

 緑郎は不敵に笑い、「はっ! この間久部、必ずやご期待にお応えしましょう」とまた敬礼してみせた。

 

 

 ……部屋の外の廊下では、正人とルイが戸惑い、顔を見合わせていた。

 二人しておっかなびっくり、足音を忍ばせてフランス窓に戻っていきつつ、

「ねぇ、正人……。不老不死の魔法の鳥を、西太后が探してたって噂、ボク聞いたことあるの……。黄金栄(ワンジンヨン)(上海マフィア青幇〈チンパン〉のボス)のじいじいから、寝物語にさ。いまの話もその鳥さんのことかしら?」

「さ、さあね。とにかく、まず仲間に知らせなきゃ。どうやら大変な秘密を知ってしまったらしいね……」

 と言いあいながら、窓を開け、バルコニーに戻る。

 正人が「上から引っ張ってやるよ」と言い、荒縄を伝って、先に屋上に登っていく。「ルイ、アジトに戻ったらさ……」と下に向かって言ったとき、頭上から「誰だ!」と低い男の声がした。

 正人はぎょっとし、見上げた。屈強な日本の憲兵が屋上からこっちを睨(にら)み下ろしていた。

 ごくりと唾(つば)を飲み、正人が叫んだ。

「憲兵にみつかったぞ! ルイ、階段から逃げろっ!」

こんなニュースも