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 魔都・上海の夜会の席で、關東軍の間久部緑郎少佐は、恩師の猿田博士から、伝説の「火の鳥」について聞かされる。タクラマカン砂漠の「さまよえる湖」周辺では動植物に長寿と活力がみられるという。かの地の未知のホルモンと火の鳥の関係を研究している猿田の推薦で、緑郎は日本軍の調査隊長に。計画をめぐる軍幹部の密談を盗み聞きしていたのが、緑郎の弟・正人と仲間の中国人ルイ。2人は逃げようとするが、正人は、憲兵に見つかってしまい……。

 

 緑郎は意気揚々とした顔つきで、夜会が盛りあがるボールルームに戻った。バンドの奏でる音楽が高鳴り、客たちの笑い声も大きく響いている。

 笑顔で軍人たちの輪に入ろうとしたとき、ふいに憲兵隊の分隊長が現れ、「少佐!」と呼び止めた。

「さきほど不審な侵入者を発見し、一名捕らえたのですが。八路軍(中国共産党の軍)のスパイだったようです。しかし……」

 と、声を落とし、言い辛(づら)そうに、

「自分は日本人で、しかも、間久部少佐の弟だと言い張っておりまして」

「弟? ぼくに弟は……」

 と不思議そうに答えかけ、緑郎は「あぁ、いや、いたな」と言い直した。

 分隊長と並んできびきび歩きながら、「さては正人のことだろうなぁ。でも、あいつはスパイなんかじゃないぜ。ただの食い詰めた大陸浪人だよ。日本で親父(おやじ)と揉(も)めて、大学を辞めちまい、ロマンを求めて、魔都上海に渡ったが……」と肩をすくめてみせる。

 分隊長とともに、薄暗い廊下を進み、正人が捕らえられている粗末な部屋に入る。

 正人は顔を腫らし、額と頬から血を流して、木の椅子に縛りつけられていた。緑郎を見上げると、情けない表情になって、「あっ、兄さん」とつぶやいた。

 緑郎は腰に両手を当て、ガミガミと雷を落とした。

「なにが、あっ、兄さん、だよ! まったく、おまえには昔っから迷惑のかけられ通しだ。出世に響いたらどうしてくれる。もしもおまえに本当に中国共産党のスパイになるような根性があれば、ぼくだって少しは見直しているぜ? 相変わらず、ルイとかいう男娼(だんしょう)紛(まが)いの京劇(男性演者が主の古典演劇)役者と遊び回ってるんだろう。あいつもおまえもドブネズミみたいにみすぼらしいや」

 正人が急に「やめろ!」と大声を出した。おどろいた緑郎は、つい口を閉じた。それからムッとして、

「フ、フン。こうして立派な兄の前に出て、さぞ自分が恥ずかしいだろうな。ぼくは大日本帝国、そして大アジアの未来を背負って立つ男だ。だがおまえは、ドブネズミだ、ニワトリだ。コーッココココ! ほら、これがおまえの姿だぜ! コーッ!」

 と両手のひらを尻にくっつけ、ふざけて歩き回った。

 正人は縛られた椅子ごと立ちあがり、「この日本鬼子(ザボングイズ)め!」と緑郎に体当たりした。緑郎が壁に叩(たた)きつけられる。正人も反動で床に落ちて、「ぼ、ぼく、ぼく、はっ……」と言いかけ、あとは涙にむせんだ。

 分隊長がおそるおそる口を挟む。

「あの、少佐。もうわかりました。そもそも彼は日本人ですし、コソ泥か何かでしょう。放免します……」

 と正人の縄を解いてやると、逃げるようにそそくさと出て行った。

 それを横目で確認すると、緑郎はふと無表情になった。

 落ち着いて立ちあがり、軍服の埃(ほこり)をはらいながら、

「まったく、いつまで泣いてるんだ。ほら、もう帰れるぞ。兄貴に感謝しろよ。おまえを助けるためにニワトリの真似(まね)までしてやったんだぜ」

「し、し、しない! ひっく。ぼくの友への、侮辱を……あっ、謝れ!」

「はぁ? ハイハイ、悪かったよ。おまえのことはともかく、ルイとかいう子のことはよく知らんからな」

 正人は涙を拭き、ふらふらと立ちあがった。うなだれながら部屋を出て行こうとして、振りむき、

「なぁ、緑郎兄さん……」

「なんだよ。いいからもう帰れって」

「ぼ、ぼくはね、兄さんは愛国者なんだと思ってた。親父のように。つまり、ぼくと兄を隔てているものは思想なんだって。でも、ちがったんだ。兄さんは、じつのところ、自分が出世して、皆に尊敬されたり、うらやましがられたりするのを望んでるだけのお人なんだ。日本も、世界も、人民の幸福も、どうだっていいのさ。そして、兄さんをそう変えたのは、十五年前の、夏の……」

 緑郎はポカンとして正人を見返した。「つまり、おまえは正人のくせに、ぼくのことを認めない、尊敬しないって言うのか」と意外そうに聞き返す。

「そうだよっ。ぼくも兄さんのことがきらいなんだ。実存的にきらいなんだ。じゃ、じゃあ、さよなら。幼いころは優しかった、ぼくのたった一人のお兄さん!」

 正人は部屋を飛び出し、バンッと扉を閉めた。

 取り残された緑郎は、ふいに子供のような悔しそうな表情を見せた。しばし考えこむ。

 何か思いついたらしく、急いで廊下に出ると、「待てよ、ドブネズミ!」と弟を呼び止めた。

「おまえは、この国の言葉や文化に詳しいし、中国人の仲間も多いからな。ガイドに雇ってやるよ」

「なんだって!? ぼくを雇う……?」

「そうさ。仕事ぶりを間近に見さえすれば……その、少しは、兄のことを……尊敬……いや……」

 言いかけた言葉を、緑郎は苦く飲みこんだ。

 

 

 廊下の角には中国趣味(シノワズリー)な紅木の台が設置され、翡翠(ひすい)の虎が飾られていた。赤い壁にはヨーロッパ風の鉄製のガス灯が瞬いている。東洋のパリたる上海ならではの豪奢(ごうしゃ)な造りだ。

 その虎の置物の陰から……緑郎と正人が遠ざかっていく姿をこっそり見送る細い人影があった。

 大きな青い目を輝かせ、亜麻色の髪を腰まで垂らす白人の女だ。濃紺のシルクドレスに身を包み、足元はハイヒール。腰にガンベルトを巻き、枝のような形の不思議な笛を、まるで銃のように装着している。

「なるほど……間久部少佐には弟がいたか。でもまだまだ謎が多い。さて、何をどう調べればいいのか……?」

 と、頭を抱えだす。

 そのとき、華やかなボールルームのほうから、複数の笑い声と足音が近づいてきた。

「やーだ、おかしい! 上海暮らしってほんと愉快なことばっかりよね!」

 モダンなパーティー服に身を包んだ若者グループの中心に、豪華な毛皮のコートを羽織った麗奈がいた。白人の女をみつけると、「あら。あなたは、さっき一緒に踊った笛吹き姑娘(グーニャン)じゃない?」と微笑(ほほえ)みかける。

「あたし、間久部麗奈よ。ねぇ、まだまだ踊り足りないし、ここには阿片(アヘン)もないの。だから大世界(ダスカ)(フランス租界の遊技場)に繰りだすところよ。そうだ、笛吹き姑娘もいらっしゃい。また……」

 麗奈はくるりとターンしてみせ、

「跳舞バ(テォーウバ)(踊りましょ)!」

 女ははっとし、麗奈の顔を窺(うかが)い見た。小声で、「間久部と名乗ったな……? なるほど、この女が少佐の妻なのか」とつぶやく。

 うむとうなずき、麗奈にうやうやしく近づいた。床に片膝(ひざ)をつき、「是了(ズーラ)……」と頭(こうべ)を垂れる。

「わたしはマリアと申します。麗奈さま、美しいあなたが踊るなら、わたしの笛は音色を奏でることでしょう」

 と腰に下げた笛を視線で指し示して、にっこりした。

 麗奈は「そうこなくっちゃ!」と笑い声を上げた。マリアと肩を組み、仲間とともに、はしゃいで廊下をまた進んでいった。

 

 

 麗奈たちが足をもつれさせ、キャセイ・ホテルの正面玄関から転がり出てきた。嬌声(きょうせい)を上げつつ、黒塗りの高級車につぎつぎ乗りこむ。

 魔都上海の夜はこれからだった。ビルの薄茶色の外壁をネオンが鈍く照らし、香油や汗の匂いが、魔法のように重く立ちこめている。ターバンを巻いたインド人巡査の前を、竹の帽子を被った中国人の男が、人力車を引いて通り過ぎる。その人力車には、羽織袴(はかま)姿の日本人や燕尾服(えんびふく)を着た英国人が乗っている。さまざまな肌色の人間が、ばらばらな言語をまくしたて、先を急ぐ。

「大世界へ! レ、レ、レッツゴーよ!」

 という麗奈のふざけ声も、たちまち飲みこまれる。

 むせるほどの喧騒(けんそう)とともに、光と宵闇が、同時にぐんと濃くなって……。

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