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 ハンセン病の元患者を隔離した国策をめぐり、政府はその家族も差別と偏見にさらされてきたことを認め、補償と名誉の回復に取り組むことになった。

 隔離政策の開始から110年余。2001年に過ちを認め、元患者への補償に乗り出してからも18年が過ぎた。なぜこんなにも長い年月を要したのか。

 愚かな政策の転換と償いが遅れた国を責めるだけでは、十分な解はみつかるまい。それを受け入れてきた社会のありようも問われている。

 元患者らが、そしてその声を受け止めた人たちが、さまざまに発信を続けている。目をこらし、耳をすませたい。

 ■芸術家とともに

 一周7キロ、高松市沖の大島は、療養所がある「隔離の島」として知られる。いまは3年に1度の現代アートの祭典、瀬戸内国際芸術祭のまっただ中だ。

 かつて元患者がつかっていた家屋に、11の作品が点在する。

 「Nさんの人生・大島七十年」は、絵本作家の田島征三さんの作。16歳での離郷、療養所で重症者の看護を命じられた強制労働、同じ病の女性との結婚と妊娠、中絶……。廊下を進むと、部屋ごとにNさんの苦難の歩みが絵巻物風に示される。

 美術家の山川冬樹さんが出品したのは「海峡の歌」だ。島外に出ることを禁じられた人々は、自由を求めて対岸へ泳いで渡ろうとした。山川さんは同じ海を泳ぎ、その姿を撮った映像を見せながら、子どもたちが朗読する短歌を流す。「飼い殺しなどと言はれて枠の中に生きて死にたる者ら甦(よみがえ)れ」

 社会から排除されてきた島に転機が訪れたのは、10年ほど前のことだった。瀬戸内一帯の島々で芸術祭が催されることになり、大島も参加を打診された。

 「人間を棄(す)ててきた島に価値はない。誰も来ない」。そんな声が強かったが、療養所自治会の森和男さんは「何があったか知ってもらうためにも、できるだけ多くの人に来てほしい」と考え、島の「開放」を進めた。

 芸術祭の作品には、隔離政策の告発のほか、人間としての誇りやつながりの再生を願う思いなどが様々に込められている。

 孤絶の世界で何を希望に生きてきたのか――。そう考えさせるような展示は、元患者との交流と対話を重ねた結晶だ。

 ■「共感」促す試み

 次々と訪れる観光客には、隔離の記憶を刻む島だと知らない人も多い。だが元患者の人生を映した作品に触れ、故郷を失った人の納骨堂や強制中絶で命を奪われた胎児を悼む碑をガイドと歩き、共感が生まれる。

 「選択肢のない人生ってどういうものか考えた」(東京都の32歳男性)。「支え合い、生き抜いた人を尊敬する」(兵庫県の31歳男性)。何度も足を運ぶ大阪市の女性(41)は自宅近くで「語る会」を開き、岡山市の男性(49)はボランティアでガイドを務めるようになった。

 大島以外でも、垣根を越えていく、さまざまな試みがある。

 岡山県では、療養所がある長島などの島々をめぐるクルージングツアーが催されている。

 高齢化が進む元患者らが、問題を風化させまいと主催する。長島に残る収容施設や監房跡などを学芸員とまわる。構えずに参加してもらおうと牡蠣(かき)で知られる人気の港を発着場所にした。9月までに7回あるツアーは、すでに予約でいっぱいだ。

 全国に13ある国立療養所の大半には資料館がある。その中心が、東京都東村山市の国立ハンセン病資料館だ。関連する映画や絵画、小説、音楽などがつくられてきたことを意識し、それぞれの分野の愛好家を呼び込む企画展やワークショップを開く。今春には元患者らの話を動画投稿サイトで配信し始めた。

 ■一人ひとりが動く

 ハンセン病をめぐっては、特効薬の開発と普及などで1960年ごろには隔離は不要とされていたのに、打ち切りは96年まで遅れた。元患者への補償へと舵(かじ)を切った01年以降、人権に関する学習活動や啓発事業が行われてきたが、家族は置き去りにされた。

 6月末の熊本地裁判決が元患者の家族への賠償を命じた後、安倍首相は控訴を断念し、家族に謝罪した。今後、元患者への補償金支給と名誉回復を掲げる二つの法律が改正され、家族も被害者だと位置づけられる見通しだ。

 ただ、それだけで差別と偏見がなくなるわけではない。

 元患者は隔離によって個人の尊厳を著しく傷つけられた。その家族は就学や就職、結婚などを妨げられた。そうした「人生被害」は想像を絶する。

 隔離政策を推進した国が厳しく批判されるのは当然だが、元患者と家族を追い込んだのは地域の住民だったことを忘れてはならない。

 ハンセン病にまつわる歴史を知ろうと、一歩を踏み出す。差別や偏見について考え、自らに問う。一人ひとりのそうした取り組みが、過ちを繰り返さないための礎となる。

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