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 急転直下、大学入学共通テストへの英語民間試験の導入見送りが決まった。きのう萩生田光一文部科学相が表明した。

 準備してきた受験生や保護者、高校の教員らには、振り回されたことへの怒りや戸惑いがあるだろう。だが大きな欠陥を抱えたまま強行すれば、どれほどの混乱を招いたか計り知れない。見送りの結論は妥当だ。

 むしろ問題は、決断が遅すぎたことにある。

 今回の構想に対する疑義の多くは、昨春、東京大学の五神真(ごのかみまこと)総長が国立大の会合で「拙速は避けるべきだ」と提起した時点で広く認識された。家庭環境や居住地がもたらす不平等や、複数の試験の成績を比較して合否判定に使う難しさなどだ。そして今夏は全国高校長協会が問題点を詳しく列挙して「不安の解消」を求め、さらには「延期」を文科省に申し入れた。

 それでも政府は耳を貸さず、予定通りの実施に固執した。根底には、改革は正しく、支持されているという独りよがりの考えがあった。柴山昌彦前文科相が「サイレントマジョリティは賛成です」とツイートして反発を招いたのが象徴的だ。

 もし、後任の萩生田氏の「身の丈」発言によって社会の注目が集まらなかったら、文科省は突き進んでいただろう。実際にぎりぎりまで与党幹部らの説得に動いていた。混乱を拡大させた責任は極めて重い。

 注目すべきはきのうの会見で萩生田氏が、民間試験を使う今の枠組みを前提にせず、抜本的に見直す考えを示したことだ。新しい指導要領で学んだ受験生らが受ける24年度をめざし、1年かけて検討するという。

 だが、50万人超が受ける試験に「話す力」を測る仕組みを組み込むのは至難の業だ。1年で万人が納得する解が出るとは到底思えない。取り組むべきは、共通テストの一環として話す力を試す必要が本当にあるのか、一から議論し直すことだ。

 入試は大学の教育方針に応じて課すのが原則だ。英語に関しても、会話の力がどこまで必要かは大学や学部によって違う。選抜方法は各校の創意に委ね、国はその後押しを通じて全体の底上げを図るべきではないか。

 文科省の本来のねらいは、小中高の英語教育を実践的なものに変えることだったはずだ。だが読解中心の授業からなかなか脱却できないとみて、入試をテコにしようとした。けれどもそれは、やはり順番が逆だ。

 まず話す力を含む総合力が学校で身につくよう、授業改革を徹底する。そのうえで入試を見直す。正攻法を貫くことが、格差助長などの弊害を生まず、結局は目的達成の近道になる。

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