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 「普遍」とは、時空を超えてあまねく当てはまることをいう。抽象的な言葉ではあるが、これを手がかりに新たな時代の世界を考えてみたい。

 国連の「持続可能な開発目標」(SDGs〈エスディージーズ〉)は、17の「普遍的な」目標を掲げている。

 たとえば、貧困や飢餓をなくす、質の高い教育を提供する、女性差別を撤廃する、不平等を正す、気候変動とその影響を軽減する、などだ。

 2030年までに「我々の世界を変革する」試みである。「誰も置き去りにしない」という精神が、目標の普遍性を端的にあらわす。

 15年に採択され、4年が経つが、進み具合は思わしくない。昨年9月、ニューヨークで開かれた初の「SDGサミット」で、国連のグテーレス事務総長は訴えた。「我々は、いるべき場所にほど遠い」。サミットは、この先を「野心的な行動の10年」と位置づける宣言を出した。

 目標にどこまで迫ることができるか。それが20年代の世界を見る一つの視点になる。

 ■リベラルめぐり応酬

 人権、人間の尊厳、法の支配、民主主義――。

 めざすべき世界像としてSDGsも掲げるこれらの言葉は、西洋近代が打ち立てた普遍的な理念として、今日に生きる。

 基本的人権の由来を記した日本国憲法の97条にならえば、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」である。

 帝国主義や植民地支配といった近代の負の側面を差し引いても、これらが国境を越えた物差しとして果たしてきた役割は、とてつもなく大きい。

 たとえば人権保障は、1948年に世界人権宣言が採択され、その後、女性、子ども、性的少数者へと広がっていった。

 だが、21世紀も進み、流れがせき止められつつあるかに見える。「普遍離れ」とでもいうべき危うい傾向が、あちこちで観察される。

 ロシアのプーチン大統領は昨年6月、移民に厳しく対処するべきだとの立場から、こう述べた。「リベラルの理念は時代遅れになった。それは圧倒的な多数派の利益と対立している」

 リベラルという語は多義的だが、ここでは自由や人権、寛容、多様性を尊ぶ姿勢を指す。

 発言は波紋を呼んだ。当時のトゥスクEU首脳会議常任議長は「我々はリベラル・デモクラシーを守る。時代遅れなのは権威主義、個人崇拝、寡頭支配だ」と反論した。

 自由と民主主義が押し込まれている。

 プーチン氏は強権的なナショナリズムを推し進め、米国のトランプ大統領も移民を敵視し、自国第一にこだわる。

 欧州では、排外的な右派ポピュリズムが衰えを見せない。

 香港で続くデモは、自由という価値をめぐる中国共産党政権との攻防である。

 自由民主主義陣営の勝利と称揚された冷戦終結は、決して「歴史の終わり」への一本道ではなかった。

 ■固有の文化、伝統?

 日本はどうか。

 「民主主義を奉じ、法の支配を重んじて、人権と、自由を守る」。安倍政権は外交の場面で、言葉だけは普遍的な理念への敬意を示す。

 しかし、外向けと内向けでは大違いだ。

 国会での論戦を徹底して避け、権力分立の原理をないがしろにする。メディア批判を重ね、報道の自由や表現の自由を威圧する。批判者や少数者に対する差別的、攻撃的な扱いをためらわない。

 戦前回帰的な歴史観や、排外主義的な外交論も、政権の内外で広く語られる。

 旧聞に属するとはいえ、自民党が野党時代の12年に作った改憲草案は象徴的である。

 現行憲法がよって立つところの「人類普遍の原理」という文言を、草案は前文から削除してしまった。

 代わりに「和を尊び」「美しい国土を守り」などの文言を盛り込んだ。日本の「固有の文化」や「良き伝統」へのこだわりが、前文を彩る。

 この草案にせよ、現政権のふるまい方にせよ、「普遍離れ」という点で、世界の憂うべき潮流と軌を一にしていることはまぎれもない。

 ■予断許さぬ綱引きへ

 近代社会を、そして戦後の世界を駆動してきた数々の理念。それを擁護し、ままならない現実を変えていくテコとして使い続けるのか。その値打ちと効き目を忘れ、うかつにも手放してしまうのか。予断を許さない綱引きが20年代を通じ、繰り広げられるだろう。

 SDGsはうたう。

 「我々は、貧困を終わらせることに成功する最初の世代になりうる。同様に、地球を救う機会を持つ最後の世代にもなるかも知れない」

 高く掲げられる理念は、差し迫った眼前の危機を乗り越えるためにこそある。

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