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 暴力的な威嚇や政治権力の圧力が、自由な表現を脅かす。あってはならない出来事が、昨年は社会に波紋を広げた。

 あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」が代表例であり、一時中止に追い込まれたうえ、文化庁が補助金の交付をやめた。その後、各地の美術展や映画祭、在外公館の行事でも計画変更などが続いた。

 同時期に、文化庁所管の日本芸術文化振興会は、助成対象を狭める要綱改正をした。

 文化関係者や市民から批判と懸念の声が収まらないのは当然だろう。表現の自由を守り、芸術文化を支援するための議論を深める必要がある。

 とりわけ、何が芸術文化なのか、基本的な考え方を確認し、共有することが重要だ。

 「芸術に政治論争や社会問題を持ち込むべきではない」「主張と表現は違う」といった意見は根強い。だが自由な創作と、その環境を成す社会の問題とは本来、不可分なものだ。

 世界的にも芸術文化の枠組みは広がっている。題材は戦争、難民、環境、性など多彩であり、表現方法も口当たりがよいとは限らない。批判的、懐疑的な視点は全ての原点にある。

 芸術や「美」の基準は時代とともに変わってきた。この1世紀の美術だけをみても、便器が作品になり、画布が切り裂かれ、常識を覆す試みが物議をかもしつつ、潮流を変えた。

 それは単に枠組みの拡大にとどまらない。夢や幻想の姿を映し出した超現実主義の絵画や詩や小説が人間の無意識をあぶり出し、黒人や労働者の音楽が社会的弱者の喜怒哀楽に光を当てた。「ゲルニカ」のように、戦下の悲劇を激しく、見るのがつらいほどに描出した絵画がファシズムの危機を告発した。

 そうした芸術家の感性が社会に多様な視点を与え、ひいては寛容さと豊かさを育む力になりうる。もっと予見なく、おおらかに、作品と向き合ってみたらどうだろう。

 もちろん、多彩な作品をきちんと評価し、健全な文化行政を生み育てるには、専門家が役割を果たす制度も重要だ。

 その一つが、政府や自治体から独立して助成などを運営する第三者機関「アーツカウンシル」だ。文化庁も近年整備を呼びかけており、国レベルの芸文振のほか、東京や横浜、地方でも設立され始めている。

 だが、芸文振が助成問題で論議を呼んだように態勢は心もとない。モデルである英国では、表現活動に金は出すが口は出さない「アームズ・レングス」の原則を、長い時間をかけて築いてきた。日本でも、確かな制度づくりが今後の課題である。