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 あのぼやき節をもう聞けないことを残念に思う人は多いだろう。球界に大きな足跡を残して野村克也さんが亡くなった。

 契約金ゼロのテスト生から戦後初の三冠王に輝いた。脚光を浴びる長嶋茂雄さんや王貞治さんをヒマワリに、当時は人気薄だったパ・リーグに所属する自らを月見草にたとえた。対抗意識と尽きぬ向上心、鋭い観察・分析力が持ち味だった。

 指導者としての力量も傑出していた。3度日本一に導いたヤクルトを含め、低迷するチームの再建に尽力した。監督としての最多敗戦数1563は、勝利数1565とともに勲章だ。社会人野球の監督も務めた。

 「野球は頭のスポーツ」が信念で、精神主義や根性論を排した。データをまとめ、膨大な数字の集積から相手の一歩先をいくことを心がけた。

 「くさいところを攻めろ」といった、どうすればいいのか実は分からないことを言う監督は多い。野村さんは違った。

 「1球目はこう、2球目はこう。3球で勝負。それで打たれりゃ、しゃあない」。明確に指示を与え、責任を引き受ける。問われれば、打者心理を含めて理由をしっかり説明する。薫陶を受けた古田敦也さんは、日本を代表する名捕手となった。

 その眼力は、選手の隠れた力を引き出すときに一層さえた。くすぶる選手をよみがえらせ、「再生工場」と呼ばれた。

 南海の監督当時、血行障害で長いイニングを投げるのが難しくなった江夏豊さんを、リリーフに転向させたのが始まりだ。先発完投が理想だった時代に、実績がありプライドをもつ江夏さんに理を説き、「配置転換」を納得させ、プロ球界が分業制に移行する契機となった。

 失敗もあった。ヤクルトを率いて初の日本一になった93年、前半の快進撃を支えたのは新人投手の伊藤智仁さんだった。だがひじと肩を痛め、選手生命を縮めることになった。

 フォームに改良の余地があると思いつつ、疲れがあっても我慢してしまう生真面目な1年目の選手を使い続けたことを、野村さんは深く悔いた。その後、選手一人ひとりの性格にまで分け入って個性を伸ばす指導は、さらに深化したように見えた。

 野村さんが人気を集めた理由には言葉の豊かさもあった。多くの本を読み、ときに古典を引用しながら、選手の感覚や思考を平易な言葉で伝える解説は秀逸だった。野球の新たな楽しみ方をファンに教えてくれた。

 今や日本代表チームを始め、各球団の監督・コーチに野村さんの指導を受けた世代が名を連ねる。先達がまいた種を、大きく、豊かに育ててもらいたい。

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