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 里見とん(とん)、小林秀雄、永井龍男ら“鎌倉文士”の後押しで、1970年に神奈川県鎌倉市で誕生した月刊タウン誌「かまくら春秋」が4月で創刊50年、600号を迎えた。活字離れ、出版不況と言われる今も、変わらず文芸連載に力を注ぐ小さな雑誌は、文化人に愛された鎌倉からの発信に誇りを持っている。

 鎌倉から東京まで電車で移動する1時間に読み切る想定で作られた誌面は、三木卓の身辺雑記に石原慎太郎による文士回想、村松友視の自伝小説のほか、辰巳芳子の料理随筆、地元写真家によるカラーグラビア連載なども。地方誌らしさの一方、全国区の知名度を誇る執筆者が居並ぶ。

 発行・編集人の伊藤玄二郎さん(76)は東京の出版社の新人時代、鎌倉在住の作家のあいさつ回りを指示された。本人に会えず名刺を残して帰るばかりの中、最後に訪ねたのが里見とん。有島武郎、生馬の弟で白樺派の重鎮だった。玄関先で帰ろうとすると、奥から「上がらないか」と声がかかった。里見作品は読んだことがなかったが、知ったかぶりは通用しないと観念したのがよかった。「飯、食っていかないか」。これで“扉”が開いた。

 入ったばかりの出版社は経営破綻(はたん)し、仕事もなく鎌倉に入り浸っていたら、「若い者がぶらぶらしているのはよくない。雑誌を作らないか」と里見に言われた。こうして伊藤さんは、25歳でかまくら春秋社を設立。当初の事務所は、戦時中に生活に困った川端康成らが蔵書を持ち寄った貸本屋「鎌倉文庫」と同じ場所に置いた。「鳩サブレー」で知られる豊島屋など市内の有名店と東京の企業が資金面を支えてくれた。「若さの特権で怖い物知らずでした」と伊藤さんは笑う。

 端正な文章と裏腹に、小林秀雄はべらんめえ口調で「潰したらオレが勘弁しない」。永井路子は「市中の碑の漢文ぐらいは読めるように」、田村隆一は「文化とは偉大な浪費。時間を惜しむな」と激励した。「みんな連載に追われる年代を過ぎ、好きにいじれるおもちゃを手に入れたと思っていたようです」

 「普段着というよりステテコ姿」(伊藤さん)で接してくれたのも、「地元」の強み。小林に「そんなことも知らないのか」と繰り返し絡まれて腹が立っても、次に会えば音楽の深遠な話に引き込まれた。「絡まれて叱られて一人前。1回限りの東京の編集者では得られない体験でした」

 時間にも厳しかった。訪問の約束に数分遅れたら、永井龍男は玄関で正座して待っていた。里見家の宴席では、そうそうたる面々が乾杯もせず無言で待ち構えていたことも。近くても「のりを越えない」距離感をたたき込まれた。

 肝に銘じているのは、雑誌の記事は「(相手が)抗弁できないような形で載せるべきではない」という里見の言葉。だから、文壇の長老だった小島政二郎が小さな精肉店をくさした原稿は、ひるまず没にした。

 上着のポケットに納まる小ぶりな判型の92ページで値段は325円(税込み)。部数は2万部で、読者の6、7割が湘南地区、残りは東京都内など各地の定期購読者だ。少ないが海外にも読者はいる。経営が苦しくても効率主義に走らず、文芸中心の誌面作りができたのは、文化を大事にする人々がいた鎌倉だからこそ。

 最後の文士と呼ばれた永井龍男が90年に亡くなり、今の鎌倉に往年の雰囲気はない。「まちに余裕がなく『偉大な浪費』はできなくなったし、社会規範の網の目が細かくなって作家の自由も失われた」。それでも、文士の存在が積み重ねた無形の遺産が「かまくら春秋」の中に息づいている。「おかげで原稿依頼はまず断られない。この土台の上に、次代の鎌倉の文芸をつくりたい。心に深く刻む活字の力を信じています」と伊藤さんは話す。(織井優佳)

 ■編集長の個性光る

 出版業界の動向に詳しい文化通信社の星野渉さんの話 雑誌は編集長の個性がつくるもの。「かまくら春秋」も、一時代を築いた作家たちと伊藤編集長の濃密な付き合いを映し、文芸的で堅実な誌面が愛されてきたのでしょう。書店は全国で減っていますが、個性的な小さな書店の誕生も目立つ。本がある空間の魅力は衰えていないんです。各地の文化を支えるローカルな雑誌には今後も意義があると思います。

 <訂正して、おわびします>

 ▼17日付社会面の「かまくら春秋」の記事で、執筆陣について「松村友視」とあるのは「村松友視」の誤りでした。入力の際に誤り、確認も不十分でした。

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