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 きょう沖縄は慰霊の日を迎える。追悼式が開かれる糸満市摩文仁(まぶに)は沖縄戦最後の激戦地だ。

 今年はコロナ対策で式典の規模が縮小されるが、そのあり方をめぐって論争が起きた。

 県は会場をいつもの「平和の礎(いしじ)」そばの広場から、同じ平和祈念公園内にあり、18万柱の遺骨が納められている国立戦没者墓苑に変更しようとした。

 だが沖縄戦の研究者たちから反対の声があがる。「国の施設で式をするのは、国家が引き起こした戦争に巻き込まれて肉親を亡くした県民の感情と相いれない」との指摘だった。

 沖縄戦の特徴は民間人の犠牲の多さにある。死者20万人余のうち一般住民は9万4千人。出身の軍人軍属もあわせ、県民の4人に1人が亡くなった。

 日本の軍隊によって、避難した壕(ごう)から追い出されたり、自ら命を絶つよう迫られたりした人も数知れない。軍が住民に集団自決を強制したとの記述を、政府が教科書から削除させたときには、まさに「島ぐるみ」の抗議運動が展開された。

 今回、玉城デニー知事は「勉強不足だった」と釈明し、従来通り、国籍や出身地を問わず全ての犠牲者の名を刻む「平和の礎」近くで催すことを決めた。

 戦後75年。会場問題は、当時の政府や軍が犯した過ちは決して消えないこと、一方で、戦争の実相の継承が難しくなっていることの双方を映し出す。

 朝日新聞と沖縄タイムスが実施した沖縄戦体験者の聞き取り調査では、体験が次世代に「伝わっていない」と答えた人が6割を超えた。戦争を知る人の多くは鬼籍に入り、話を聞ける機会は年々減っている。

 そんな危機感も背景にして沖縄で機運が高まっているのが、那覇市の首里城地下にある旧日本軍の司令部壕の保存だ。

 住民らを動員して掘られたもので総延長約1キロに及ぶ。ここに1千人の将兵と、地元出身の軍属や学徒が雑居していた。90年代に保存・公開を求める声が上がったが、やがて立ち消えに。それが、昨年大火に見舞われた首里城の復興を検討するなかで再浮上した。

 米軍の攻撃を受け、当時の司令部は住民が多く避難していた島南部への撤退を決めた。本土侵攻を遅らせるために時間を稼ごうとしたこの判断が、軍民混在の戦場を広げ、犠牲者を増やした。過重な米軍基地負担に苦しむ現在の沖縄の起点ともなった戦争遺跡といえよう。

 きょうの追悼式には、沖縄と同じように民間人の犠牲者が多かった広島と長崎の市長がメッセージを寄せる。ともに75年前の悲劇に思いを致し、この国の今を見つめ直す機会にしたい。

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