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 高校で学ぶ国語は、22年度実施の新学習指導要領に基づいて再編され、論理的・実用的な文章を扱う「論理国語」と、文学的な文章を扱う「文学国語」という選択科目が登場する。

 これに対し、多くの作家や研究者が「文学軽視につながる」と異を唱えてきた。全体の授業時間の制約や受験への配慮などから「論理国語」が優先され、「文学国語」を採用する高校は少なくなるとみるからだ。

 日本学術会議の分科会も先月末、懸念とそれを踏まえた改善策を提言した。「『論理』と『文学』を截然(せつぜん)と分けられるものだろうか」との指摘に、共感する人は多いのではないか。

 例えば大岡昇平の「レイテ戦記」は膨大な史実と考察に基づく作品だが、全集では「小説」に分類されている。物理学者で随筆家でもあった寺田寅彦の文章には、学術・文学両様の味がある。いみじくも寅彦は「科学者の天地と芸術家の世界とはそれほど相いれぬものであろうか」と書き残している。

 論理国語の目的は、論述の力や批判的な読解力を育むことだとされる。将来進学や就職をすると、様々な文書や図表を読み込み、内容を消化したうえで、論拠を示して主張や反論を行うことが求められる。多くの仕事が人工知能や機械に置き換えられる時代を前に、人間ならではの考え抜く力を培いたい――。今回の再編に込められた問題意識そのものは理解できる。

 しかしだからといって、学ぶ対象を「『文学的な文章』を除いた文章」に限る理由はない。先の目的にかなう教材だと思えば、ジャンルにこだわらずに、どんどん活用すれば良い。

 実際に学校現場はこれまで、物語の構造を分析し論理的な思考力を養う授業を重ねてきた。教員経験のある研究者は、物語の読解指導をするうちに、苦手だった説明文なども読めるようになる子がいると話す。取りあげる文章の種類に最初からたがをはめてしまうと、教材の多様さが失われ、そうした相互作用は働きにくくなるだろう。

 国語の教科書検定は今年度と来年度に行われる。学術会議の提言は、文部科学省と教科書会社の双方に柔軟な対応を求めた。自由な発想を大切にし、教材の範囲を窮屈に考えないようにしてほしい。とりわけ文科省には、編集現場の萎縮を招くようなしゃくし定規な検定をしないことが求められる。

 そもそも論理国語がめざすような思考力や表現力は、国語だけで養われるものではない。理科や地理歴史・公民などとの関わりも深い。高校教育全体の中でそうした力を養う方策について、議論を深めてはどうか。

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